コンスタンティノープル条約
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コンスタンティノープル条約(イスタンブール条約)
- ルーシ・ビザンツ条約 (907年) - 907年のルーシ・ビザンツ戦争を終わらせた条約。コンスタンティノープルで締結された。
- ルーシ・ビザンツ条約 (911年) - コンスタンティノープルで締結された。
- コンスタンティノープル条約 (1479年) - 十五年戦争]を終結させた条約。
- コンスタンティノープル条約 (1533年) - オスマン帝国とオーストリア大公国の講和条約。
- コンスタンティノープル条約 (1590年) - オスマン・サファヴィー戦争 (1578年-1590年)の講和条約。
- コンスタンティノープル条約 (1700年) - 露土戦争 (1686年-1700年)を終結させた条約。
- コンスタンティノープル条約 (1712年) - プルト条約を再確認した条約。
- コンスタンティノープル条約 (1720年) - アドリアノープル条約を改訂した条約。
- コンスタンティノープル条約 (1724年) - ロシア帝国とオスマン帝国が、サファヴィー朝ペルシャ領コーカサス地域の分割を取り決めた条約。
- コンスタンティノープル条約 (1736年) - オスマン・ペルシア戦争 (1730年-1735年)を終結させた条約。
- コンスタンティノープル条約 (1832年) - ギリシャの独立が正式に承認された条約。
- スエズ運河の自由航行に関する条約 - 1888年、コンスタンティノープルで締結された。
- コンスタンティノープル条約 (1897年) - 1897年の希土戦争の講和条約。
- コンスタンティノープル条約 (1913年) - 第二次バルカン戦争におけるオスマン帝国とブルガリア王国の講和条約。
コンスタンティノープル条約
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「第二次バルカン戦争」の記事における「コンスタンティノープル条約」の解説
詳細は「コンスタンティノープル条約 (1913年)(英語版)」を参照 8月、オスマン軍はコモティニで西トラキアの臨時政府を設立してブルガリアに圧力をかけた。ブルガリアは9月6日にミハイル・サヴォフ(英語版)将軍と外交官のアンドレイ・トシェフとグリゴール・ナチョヴィチ(英語版)を代表としてコンスタンティノープルでの講和交渉に派遣した。オスマン代表は外相メフメト・タラート・パシャ、海軍相チュリュクスル・マフムト・パシャ(英語版)とハリル・サーミ・ベイ(英語版)だった。ロシアは8月を通して介入、エディルネが再びトルコ領になるのを防ごうとしたが、トシェフはオスマン代表に「ロシア人は根本的にはコンスタンティノープルを自国領だと考えています。彼らはコンスタンティノープルを手に入れたとき、できるだけ多くの後背地を手に入れることだけが関心事です。もしトルコ人がアドリアノープルを支配していたら、それも手に入れるでしょう。」と述べた。 エディルネを早々に諦めたブルガリアはクルク・キリセ(ブルガリア語名ロゼングラト)を確保しようとした。サヴォフは「全ての前線でトルコ人を撃破したブルガリアは数多くのブルガリア人の血が流れた戦場を1つも保持せずにこの栄誉ある戦役を終えることができない」と宣言し、マフムト・パシャは「私たちが取ったものは私たちのもの」と宣言した。結局、9月30日に締結されたコンスタンティノープル条約(英語版)ではブルガリアは全ての戦場を維持できなかった。ブルガリア軍がロドピ山脈から南に戻るのはようやく10月のことだった。ラドスラホフ内閣はその後も同盟を目指してオスマン帝国と交渉し続け、1914年8月のオスマン・ブルガリア同盟(英語版)で結実した。 1913年11月14日、ギリシャとオスマン帝国はアテネ条約(英語版)を締結して両国間の戦争状態を正式に終結させた。1914年3月14日、セルビアはコンスタンティノープルでオスマン帝国と条約を締結して1913年のロンドン条約を再確認、オスマン帝国との外交関係を回復した。モンテネグロとオスマン帝国の間の条約は締結されなかった。
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