コンスタンティノープル攻略
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「メフメト2世」の記事における「コンスタンティノープル攻略」の解説
詳細は「コンスタンティノープルの陥落」を参照 カラマン討伐の帰路で、メフメトはボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを建設することを命令した。東ローマの使者はルメリ・ヒサルの建設に抗議したが、メフメトは砦の建設は協定に違反するものではないと返答し、使者を追い返した。ルメリ・ヒサルはかつて曾祖父のバヤズィト1世がアナトリア岸に建設したアナドル・ヒサル(英語版)と共に海峡を監視し、ボスポラス海峡を通過する船舶を捕捉する態勢を整える。ボスポラス海峡を通過する船舶は通行税を徴収され、イタリア半島のジェノヴァやヴェネツィアが行っていた東方交易に痛手を与えた。 オスマン帝国によるコンスタンティノープルの包囲はバヤズィト1世(1390年 - 1402年)、ムラト2世(1422年)に続く3度目であったが、メフメトは過去の包囲の教訓を生かし、長期の包囲戦を避けて短期決戦を選んだ。ハリル・パシャらはヨーロッパのキリスト教徒の攻撃を招くと包囲に反対したが、ザガノス・パシャらメフメトの側近は包囲を支持する。1453年4月6日、メフメトは反対を押し切ってコンスタンティノープルの包囲を開始した。 包囲中、主戦派と反戦派の間にたびたび衝突が起きたが、ハンガリーの技師ウルバン (Orban) が改良した大砲は、コンスタンティノープルの城壁に大きな損害を与えた。同年5月29日にオスマン軍はコンスタンティノープルを攻略、東ローマ帝国を滅ぼした。コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンは逃亡を図ったが、失敗し死亡した。 コンスタンティノープルの陥落はヨーロッパに強い衝撃を与え、オスマン帝国にとっての歴史的な転換点ともなった。 コンスタンティノープル征服後、極力町の被害を抑えたいと考えていたメフメトは市内で行われている略奪を取り締まり、治安を取り戻そうと試みた。城内のキリスト教徒に自由を保障し、ガラタ地区に住むジェノヴァ人が東ローマ時代に認められていた特権を再確認した。。6月1日、ゲオルギオス・スホラリオス(ゲンナディオス2世)をコンスタンティノープル総主教に叙任する。 また、コンスタンティノープル征服の直後に利敵行為を働いた罪で、ハリル・パシャとその一族、従者を投獄した。同年8月にメフメトはハリル・パシャを処刑し、多額の財産を没収する。代わりにバルカン出身のザガノス・パシャを新たな大宰相に起用し、中央集権化の第一歩を踏み出した。
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