大宰相とは? わかりやすく解説

大宰相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 03:51 UTC 版)

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The Grand Vizier giving an audience "under the dome"

大宰相日本語:だいさいしょう、トルコ語Vezir-i AzamまたはSadr-ı AzamザドラザムSadrazam)またはSerdar-ı Ekremオスマン帝国時代にはصدر اعظم または وزیر اعظم)は、オスマン帝国における最上位の官位で、ペルシャ語ヴェズィールvizier、وزير、宰相の意)に由来する。また、ヴェズラザム (Vizrazam)、ヴェズザラムと呼ばれる場合もある。英語では、Grand Vizierと呼ぶ。

概要

大宰相は支配構造上ではスルタンの直下に位置し、スルタンの絶対権力を代行する立場であり、原理的にはスルタン以外からは罷免されない。オスマン帝国運営の実務を担い、政務にあたって他の宰相を招集することができた。宮廷内の御前会議 (en) は、その開かれていた場所がトプカプ宮殿内の聖堂内 (Kubbealtı) であったことから、「聖堂宰相」(Kubbealtı viziers、英: under the dome visiers) と呼ばれた。また大宰相の公邸はバーブ・アーリー(大宰相府、en)と呼ばれた。大宰相 (Vazīr-e Azam) はまた、パキスタンの首相を指すウルドゥー語でもある(大臣一般は "vizier")。

オスマン帝国の成立してまもない頃には大宰相と言う名称はなく、宰相 (Vizier) とだけ呼ばれていた。その中で最初に大宰相と呼ばれたのはチャンダルル家出身のハイレッディン・パシャ (en) である。大宰相という位は、宰相の中でスルタンの代行者とその他の宰相を峻別するために設けられた。初めのうちはヴェズィール・イ・アーザム (vezir-i âzam) と呼ばれることが多かったが、次第にサドラザム (sadrazam) と呼ばれるようになった。どちらも意味としては同じである。大宰相はまた、オスマン帝国の歴史を通じてサドル・イ・アーリー (sadr-ı âlî、英: 'high vizier')、ベキル・イ・ムトラク (vekil-i mutlak、英: 'absolute attorney')、サーヒブ・イ・デヴレト (sâhib-i devlet、英: 'holder of the state')、セルダル・イ・エクレム、セルダル・イ・アザムザート・イ・アーサフィ (zât-ı âsafî、英: 'vizieral person') などと呼ばれた。

キョプリュリュ時代 (en)(1656年1703年) には、歴代の大宰相がオスマン帝国の実権を握っていた。この時代には、スルタンの権力は弱められ、それが支配階級の下位に分散していた。

タンジマートの後、19世紀のオスマン帝国では、大宰相は現代の西洋国家政府における首相に近い役割を果たすようになった。

関連項目


大宰相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 08:45 UTC 版)

アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン」の記事における「大宰相」の解説

権力基盤崩れたかに見えたベストゥージェフであったが、思いもよらず早くも救いの手差し伸べられた。ピョートル大帝の第2皇女エリザヴェータ・ペトローヴナのクーデターロシア語版)である。1741年12月6日女帝即位したエリザヴェータはベストゥージェフを召還し、副宰相任じた。こうしてエリザヴェータ治世20年間にわたりベストゥージェフは、ロシア外交を担うことになる。 ベストゥージェフの外交方針は反フランスであった。露仏両国オスマン帝国スウェーデンポーランドをめぐり利害衝突したまた、フリードリヒ大王統治下のプロイセン台頭著しくロシアにとって新たな脅威となった。ベストゥージェフは、英国オーストリア接近し、自然同盟形成した。ベストゥージェフはこれにザクセン公国加え四国同盟構築し、普仏同盟対抗した。しかし英墺への接近同時にベストゥージェフの権力基盤不安定化させた。エリザヴェータオーストリアに対して個人的な嫌悪抱いていた上、ロシア宮廷には親仏、親普派の勢力存在し、ベストゥージェフを失脚させるために多く陰謀企てられた。ベストゥージェフは兄ミハイル支援も受けながら、反対派陰謀退けつつ、段階的に外交方針実行していった。 1741年ロシア皇位継承に絡む内紛乗じてスウェーデンカレリア侵攻する。ロシア20万人大軍フィンランド派遣しスウェーデン軍対峙する1742年12月11日、ベストゥージェフは英露攻守同盟締結することに成功しフランス仲介拒絶したロシア軍スウェーデン軍撃破したこともあり、ベストゥージェフは1743年オーボトゥルク)で開催され講和会議フィンランド全土割譲要求した。しかし、ロシア国内親仏派エリザヴェータ女帝動かしロマノフ家姻戚関係にあるホルシュタイン=ゴットルプ家アドルフ・フレドリクフレドリク1世後継スウェーデン王推戴した。結局ロシアカレリア獲得する止まった。 ベストゥージェフは、1743年3月の普露攻守同盟締結を防ぐことができなかった。しかし、一方でベストゥージェフはプロイセンに対して侵略したシュレージエン保障同盟条約から除外することには成功し同盟実質的な重要性奪ったまた、ベストゥージェフのロシア宮廷内における政治工作によってフリードリヒ大王(ベストゥージェフは、ロシアにとってプロイセンフランスよりも危険であると認識していた)の信用確実に失墜させていった。ベストゥージェフはブレスラウ条約締結しオーストリアとの同盟への道を開いたホルシュタイン派、それを援助する親仏派によるナターリア・ロプーヒナをめぐる陰謀は、オーストリア公使幽閉されている廃帝イヴァン6世復位計画したエリザヴェータ疑心暗鬼生じさせることに成功した1743年フランスからラ・シェタルディ侯が派遣された。ラ・シェタルディはロシア宮廷内の親仏派と結びついて一大勢力形成したエリザヴェータ皇位継承者となったカール・ペーター・ウルリヒ(ピョートル・フョードロヴィチ大公、後の皇帝ピョートル3世)が、親仏派主導ホルシュタイン=ゴットルプ家縁戚に当たるゾフィー・アウグスタ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプスト(エカテリーナ・アレクセーエヴナ)との婚約成立し、ベストゥージェフの立場は最も危機瀕したゾフィー公女の母ヨハンナ・エリーザベト(アドルフ・フレドリクの妹)はロシアへ接近とそのために反プロイセン姿勢を取るベストゥージェフの失脚目論むフリードリヒ大王意を受けていた。しかし、ヨハンナ・エリーザベトの陰謀露見しエリザヴェータ激怒させる1744年6月6日、ベストゥージェフはエリザヴェータ女帝にラ・シェタルディ侯に対して24時間以内ロシア国外への退去命令出させることに成功し7月14日に大宰相(帝国宰相)に就任する。その年の末にヨハンナ・エリーザベトもロシアから追放され、ベストゥージェフの立場強固なものとなった

※この「大宰相」の解説は、「アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン」の解説の一部です。
「大宰相」を含む「アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン」の記事については、「アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン」の概要を参照ください。

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