大宰鴻臚館とは? わかりやすく解説

大宰鴻臚館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:33 UTC 版)

鴻臚館」の記事における「大宰鴻臚館」の解説

鴻臚の名は入唐留学円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年837年)の記述初め登場する承和5年838年)には第19回遣唐使副使であった小野篁唐人道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとあり、承和9年842年)の太政官符にも鴻臚館の名が記載されており、嘉祥2年849年)には唐商53人の来訪大宰府から朝廷報告されている。 天安2年858年)には留学円珍商人延孝の船で帰朝し鴻臚館北館門楼歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。貞観3年861年)および貞観7年865年)には延孝が再び鴻臚館訪れている。この傾向菅原道真により寛平6年894年)に遣唐使廃止されたのちに強まった当初鴻臚館での通商官営であった商船到着大宰府通達され大宰府から朝廷急使が向かう。そして朝廷から唐物使からものつかい)という役人派遣され経巻仏像仏具薬品香料など宮中貴族から依頼され商品優先的に買い上げた。残った商品地方豪族や有力寺社購入した商人到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在宿泊所や食事鴻臚館側が供出した。その後延喜3年903年)の太政官符には朝廷による買上前貿易厳禁されており、貿易官営から私営移行していることが窺える。そして延喜9年909年)には唐物使に代わって大宰府役人交易実務を当たらせている。 貞観11年869年)の新羅の入寇の後、警固所として鴻臚中島館を建設し大宰府の兵や武具移した。また1019年刀伊の入寇の後、山を背にした地に防備固めたという記述があり、これも鴻臚館警固所指しているとされる。 やがて時代下って北宋高麗・遼の商人とも交易行ったが、11世紀には、聖福寺承天寺筥崎宮住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易盛んになって現在の博多から箱崎海岸貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易衰退永承2年1047年)には放火される。寛治5年1091年)に宋商人居簡が鴻臚館写経した記述最後に文献上から消えることとなる。

※この「大宰鴻臚館」の解説は、「鴻臚館」の解説の一部です。
「大宰鴻臚館」を含む「鴻臚館」の記事については、「鴻臚館」の概要を参照ください。

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