仏具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/28 23:36 UTC 版)
仏具(ぶつぐ)は、仏教の儀式で使用される日用品とは異なる特殊な道具、あるいは僧侶などの聖職者が使用する装飾品の事である。法具、法器とも言う。
- ^ 『真宗の儀式-声明作法-』P.73「喚鐘」
- ^ 『真宗の儀式-声明作法-』P.65「鏧」の打ち方
- ^ 『真宗の儀式-声明作法-』P.76「磬」
- ^ 『真宗の儀式-声明作法-』P.69「音木の打ち方と示経について」
- ^ 竹箆 国際禅学研究所
- ^ 国立国会図書館. “「竹箆(しっぺい)」という、宮中で用いられた刑(罰)具があるが、これ以外に宮中で刑具に用いられたもの...”. レファレンス協同データベース. 2023年9月28日閲覧。
- ^ 読めそうで読めない!【竹篦返し】 この漢字なんと読む? 小学館
仏具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)
「長崎県指定文化財一覧」の記事における「仏具」の解説
国指定重文に指定されている仏具は、対馬多久頭魂神社の梵鐘(観音堂から移設)と金鼓(朝鮮から伝来)、同じく対馬旧清玄寺の梵鐘(のちに万松院に移設)の計3件である。 名称位置指定日解説大宝寺の梵鐘(一口) 五島市玉之浦町大宝 大宝寺 1964年3月16日 応安8年(1375年)、小倉の鋳物師藤原顕宗が鋳造したとする銘が池の間に刻まれている。同じく真言宗の「幡州多賀郡(現西脇市)」西林寺住職の増信が発願して大宝寺に贈られた。下帯は無紋で乳は4段4列、八葉蓮弁の撞座とシンプルな装飾。 金蔵寺の梵鐘 壱岐市勝本町新城西触 金蔵寺 1977年1月11日 応永19年(1412年)、丹治比系の鋳物師丹国吉が鋳造したとする銘がある。銘によると、本来は金蔵寺に近い本宮寺の梵鐘として作られた。釣手頂上の宝珠が欠落している。撞座の文様は八葉蓮弁に蓮実と間弁を巡らした八葉被弁蓮草文を象る。 崇福寺の梵鐘 長崎市鍛冶屋町 崇福寺 1960年7月13日 正保4年(1647年)に長崎の鋳物師阿山助右衛門藤原国久が鋳造した梵鐘。鐘そのものはオーソドックスな造りだが、草の間に刻まれた発願者の2代住持百拙、寄進をした何高材をはじめとする華僑檀越の連名と寄進額は史料価値が高く、長崎華僑の経済的興亡を知る手がかりとされる。 大平寺梵鐘 対馬市厳原町中村 太平寺 1964年10月16日 江戸時代前期に鋳造されたと推測される無銘の鐘。鐘身に装飾を施す朝鮮鐘の特徴を継承しつつ国産されたもので、笠形の瑞雲文、上帯に楽器、乳の間に唐草紋、鐘身に山水風景と十六羅漢を浮彫りに鋳込んで一幅の画となっている。撞座は単弁八葉の蓮華文である。 円通寺梵鐘 対馬市峰町佐賀 円通寺 1975年1月7日 李朝初期に朝鮮で鋳造されたと推測される無銘の鐘。鐘の形状は下辺縁廻りが八葉に波打った中国鐘で、全面に朝鮮鐘特有の装飾が施されている。上段の乳の間の隙間に菩薩4躯、下段の草の間には4面の円形撞座と四天王立像が並び、帯にも多種多様な文様が施されている。 善福寺鰐口 松浦市今福町仏坂免 善福寺 1971年9月14日 正平10年(1355年)に松浦党の丹後亀童丸(松浦直)が寄進した旨が刻まれている。善福寺が松浦久を祀る今宮神社の別当であった縁が寄進の動機と推測される。釣手の耳は片面式、撞座は蓮華文。口の出や眼が小さい古式な面持ちで、甲面は薄い。 金蔵寺の鰐口 壱岐市勝本町新城西触 金蔵寺 1977年1月11日 応永7年(1400年)に鏡二宮へ施入された旨が刻まれている。鏡二宮は唐津市の鏡神社と推測され、金蔵寺に渡った経緯は判明していない。釣手の耳は片面交替式、撞座は素文円形。口の出や眼が小さい古式な面持ちで、甲面は紐帯で3区に分けられている。 定光寺の銅製雲版 壱岐市芦辺町湯岳本村触 定光寺 1974年10月8日 嘉吉3年(1443年)、氏女慶幸なる人物が寿命長遠福禄円成を祈願して施入した旨が刻まれている。片面式で釣手穴は2個、撞座は筋の入った四葉重弁の蓮華文が象られている。頭頂部には稜の膨らみがあり、外周部の腰にくびれが施されている。 最教寺の繍帳誕生仏 一幅 平戸市岩の上町 最教寺 1974年10月8日 李朝時代の作と推測される四方4尺を超える刺繍の誕生仏。松浦鎮信請来の品と伝えられる。白竜と青竜から甘露を受ける釈迦を中心に、乱舞する天人や鳳凰、祝福に参内する衆生30人の図が金糸・紫糸など多彩な糸で描かれている。 世知原の懸仏 佐世保市世知原町笥瀬 個人蔵 1968年4月23日 個人所有の円形掛仏。円盤の下部に仏の坐像が乗っているシンプルなデザインで、釣環座は2つで両側から釣る。現当世円満を祈願して正応4年(1291年)に製作された旨が裏面に記録されており、製作時期が明瞭な掛仏としては県内最古のものである。 鷹島住吉神社の懸仏53面ほか一括 松浦市鷹島町里免 住吉神社 1974年10月8日 約500年前に勧進されたといわれる住吉神社に納められた多様な懸仏53面。一説には松浦党の軍船に飾られたものもあるという。住吉神と同じく航海安全の利益がある聖観音や十一面観音、如意輪観音ら観音が中心で、疾病快癒の薬師如来もある。 田平熊野神社の懸仏 平戸市田平町里免 里田原歴史民俗資料館 2008年2月22日 鎌倉時代後期から室町時代にかけた中世に作られ、熊野神社に納められた20点以上の掛仏。中には正応4年(1291年)墨書の例もある。円形の台に仏1躯、両側から吊るす形式で、造形上の特徴から畿内で作成されたと推測される。 最教寺の懸仏 平戸市岩の上町 最教寺 1974年4月9日 桃山時代の作と推測される檜板銅板張りの大判懸仏。本来は小値賀町長楽寺のもので、明治初期に廃寺となったために移された。獅子頭の釣環座で両側から釣る。内区は不動明王と毘沙門天を従えた十一面観音、外区は三鈷杵文と転宝輪文が並ぶ。
※この「仏具」の解説は、「長崎県指定文化財一覧」の解説の一部です。
「仏具」を含む「長崎県指定文化財一覧」の記事については、「長崎県指定文化財一覧」の概要を参照ください。
仏具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:34 UTC 版)
伏鉦 – 文久3年(1863年)浄福寺什物の銘あり。 木魚 – 天保14年(1843年)浄福寺常什物の陰刻あり。
※この「仏具」の解説は、「浄福寺 (奈良市)」の解説の一部です。
「仏具」を含む「浄福寺 (奈良市)」の記事については、「浄福寺 (奈良市)」の概要を参照ください。
仏具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 08:59 UTC 版)
元々はインドで、強い日差しを避けるために用いられた日傘だった。王侯貴族が用いる日傘は特に豪華に作られ、常に従者がこれを差し掛けて従ったものであり、また天蓋は権威の象徴の一種でもあった。これが仏教に導入され、帝釈天が常に天蓋を差し掛けて釈迦に従ったという伝説が形作られた。「観仏三昧海経」には、仏の三十二相の一つである白豪相が放った光明が天蓋と化したと説かれている。後には釈迦の姿から作られた仏像に用いる、天井から吊るす装飾具となった。 尊い者を守る蓋であると同時に、「仏の徳が自ずから外に現れ出た徳そのものである」とも言われる。よって天蓋は尊く素晴らしい徳を意味し、貴人、貴尊の象徴であるため、天蓋が豪華で美しい程その下に居る仏は徳が深く、偉大であることを表す。そしてこの蓋は、蓋を見た者自身が徳を積み、自然と天蓋を差し掛けてもらえるような人物になって欲しいという願いも込められている。 これらの蓋の形状は、長方形・六角形・八角形・円形等である。材質は金属、木が主に使われるようになり、彫刻や装飾が施されるようになった。尚、儀式等において僧侶に差しかけられる番傘も天蓋である。 「吉祥八宝(英語版)」も参照
※この「仏具」の解説は、「天蓋」の解説の一部です。
「仏具」を含む「天蓋」の記事については、「天蓋」の概要を参照ください。
「仏具」の例文・使い方・用例・文例
仏具と同じ種類の言葉
- >> 「仏具」を含む用語の索引
- 仏具のページへのリンク