桃山時代
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毛利輝元は秀吉に臣従し、1585年(天正13年)に安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を安堵された。朱印状における毛利家の総石高は112万石であり、ほかに四国と九州で安国寺・小早川が輝元とは別に所領を得た。 天正19年(1591年)に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録 「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」 内訳は 2万石 寺社領 7千石 京進方(太閤蔵入地) 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役 隠岐国 羽柴吉川侍従 10万石 輝元国之台所入 8万3千石 京都台所入 73万4千石 軍役 都合112万石 豊臣秀吉の天下統一後、輝元は吉田郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し、本拠を移した。また、文禄4年(1595年)の秀次事件ののち、輝元は豊臣政権の五大老の一人となった。 1598年(慶長3年)に秀吉が死去すると、政権内で台頭する徳川家康と五奉行の石田三成の対立が深まった。福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の有力大名が家康の味方に付く中で輝元の政権内の立場も微妙なものとなっていった。1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いにあたって輝元は西軍の総大将に推されて1万の兵を率いて大阪城に入り、養子の毛利秀元と一族の吉川広家を出陣させたが、広家は黒田長政を通じて決戦への不参加を条件に毛利家の所領の安堵の密約を家康との間に結び、9月15日の決選では動かずに逆に友軍の長宗我部軍や長束軍を牽制して東軍の勝利に貢献した。この密約を輝元や秀元が知らされたのは戦いが終わってのことだった。 関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わるが、大阪城にはその後も豊臣秀頼を擁する毛利輝元が残っており、毛利秀元や立花宗茂らはこの城に籠城して最後の決戦を挑むことを主張した。これを恐れた家康は福島正則や黒田長政、井伊直政、本多忠勝らを通じ、毛利家の本領安堵を条件に輝元の大阪城退去を広家に要求し、広家は輝元を説得。9月25日に約束を信じた輝元は大阪城を退去し、代って9月27日に家康が大阪城に入城し天下に号令する体制を整えた。途端に家康の態度は一変し、輝元が大阪在城中に徳川家への敵対行為があったとして所領全域を没収してそのうち一カ国か二カ国を広家に与えると通告してきた。これに驚いた広家は改めて毛利家の所領の安堵を懇願し、受け入れられない場合は自害する決意を示した。結局、家康は毛利家の領国のうち防長二国のみを輝元に保証する誓書を与えた。 家康の欺瞞によって最盛期には中国地方全域を支配し、120万石を領した毛利家は、四分の一でしかない周防国・長門国(長州藩)2か国29万8千石に領地を削られた。輝元はこれと同時に家督を長男の秀就に譲り、仏門に入って法号を宗瑞と名乗ったが、このことは家康への怒りと先祖に詫びる気持ちがあったからだと考えられている。後に西南の雄藩として幕末維新の政局を主導することになる長州藩の実力と気骨の底流には、この苦難の立藩を強いられて以来培われた負けん気と反徳川の精神風土があったといわれる。
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