ふくしま‐まさのり【福島正則】
福島正則
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福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の武将で、大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人としても知られている。安芸国広島藩主、後に信濃高井野藩の初代藩主。
注釈
- ^ 甥。尾張群書系図部集
- ^ 甥、姉と別所重宗の子。尾張群書系図部集では父を別所吉治とする。
- ^ 桶屋(おけや)とは、桶・樽・井戸側などの製造・修理・販売をする業者であるが、その職人をも指す。後述する「桶大工(おけだいく)」は、桶を作る職人のことで、「桶結師(おけゆいし)」とも呼ばれる。「桶屋」が第2義として「桶の職人」である「桶大工」をも指すことから、本項で記述している「桶屋」と「桶大工」が桶にたずさわる異なる職業(製造販売業者と職人)を指すのか同じ職業を指すのかは、特定する術が無い。
- ^ 『浅野家文書』の「羽柴秀吉陣立書」2通に名前がある。うち1通には「うしろのそなへ」として「福島市兵衛殿三百」とある。もっともこれは計画書であり、必ずしもこの通りに出陣したとは限らない。
- ^ 秀吉からの朱印状が存在するが、日付だけで年は書いていない。秀吉からは統治についての心構えを記した書状がほぼ同時期の9月8日付けに出されており、こちらの内容から、正則が伊予を与えられたのは天正15年(1587年)であると推測されている。
- ^ 『駒井日記』に正則の出陣の事が書かれているため、これ以前に1度は帰国していたと思われる。
- ^ 正則が先陣と決まっていたにもかかわらず、井伊直政・松平忠吉の抜け駆けによって開始されたとされているが、実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。また、7月7日付で家康から諸将に出された軍法の第4条で抜駆けは厳禁されており、合戦開始時においても、合戦後においても正則から直政に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、直政の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、正則の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている[24]。
- ^ 秀信は正則にとって、主筋(織田信長の家臣が豊臣秀吉で、正則はその家臣である)に当たるため、恩義により助命を嘆願した。
出典
- ^ 福尾、藤本, p. 11.
- ^ 尾張群書系図部集
- ^ 福尾、藤本, p. 1.
- ^ 『系図纂要』『福島家系図』
- ^ 福尾、藤本, p. 4.
- ^ a b c 福尾、藤本, p. 14.
- ^ 『福島氏世系之図』『福島家系譜』などによる
- ^ 福尾、藤本, p. 13.
- ^ 福男、藤本, p. 16.
- ^ 福尾、藤本, p. 17.
- ^ 福尾、藤本, pp. 19–20.
- ^ 福尾、藤本, pp. 24–25.
- ^ 福尾、藤本, p. 25.
- ^ 福尾、藤本, p. 32.
- ^ 福尾、藤本, p. 34.
- ^ a b 黒田基樹「福島正則文書の基礎的研究」『芸備地方史研究』210・211号、1998年。
- ^ 福尾、藤本, p. 64.
- ^ a b 福尾、藤本, p. 69
- ^ 日本戦史・朝鮮役, 補伝 征韓録[1]
- ^ 福尾、藤本, p. 76.
- ^ 村川, p. 27; 福尾、藤本, p. 78.
- ^ 『島津家文書』二‐九七八
- ^ 福尾、藤本, p. 90.
- ^ 笠谷, p. 69-73.
- ^ 福尾、藤本, p. 133.
- ^ 福尾、藤本, p. 154.
- ^ 村川, p. 35頁.
- ^ 福尾、藤本, p. 170.
- ^ 福尾、藤本, p. 172.
- ^ a b c 福尾、藤本, p. 179
- ^ 福尾、藤本, p. 78.
- ^ 福尾、藤本, p. 65、138.
- ^ 山本博文. “福島正則|国史大辞典|ジャパンナレッジ”. JapanKnowledge. 2023年10月22日閲覧。
- ^ 福尾、藤本, p. 33.
- ^ 橋本, 「蔵人五位と五位蔵人」.
- ^ 福尾、藤本, p. 71、138.
- ^ a b 木下, 「織豊期の武家官位」
- ^ 福尾、藤本, pp. 135–136.
- ^ 福尾、藤本, p. 97.
- ^ 福尾、藤本, pp. 155–157.
- ^ 福尾、藤本, p. 164.
福島正則(ふくしま まさのり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 23:30 UTC 版)
「御指名武将真田幸村 かげろひ -KAGEROI-」の記事における「福島正則(ふくしま まさのり)」の解説
秀吉の重臣。加藤といつも行動を共にしている。加藤とは逆にお気楽なところがある。交換癖があり何でも交換してしまう(逆わらしべ長者となることも)。
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福島正則(市松)
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福島正則
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史実では清正同様、秀吉子飼いの武将。ゲームでは「越前進攻戦」において秀吉が敗走する前にクリアすると合戦後の評定で加入する。主な兵種は槍騎馬、武将系統は「猛将」。
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福島正則(ふくしま まさのり)
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「センゴク」の記事における「福島正則(ふくしま まさのり)」の解説
通称は市松。秀吉の子飼いの少年。作品冒頭から登場しており、秀吉からは息子同然に可愛がられている。権兵衛とも子供時代から面識があり、「権(ゴン)さん」と呼んで慕っている。目が細く無口だが手先が器用で、第二部からは清正に比べて恰幅の良い体格にもなっており、権兵衛からは「饅頭食いすぎじゃ」とからかわれている。武勇に長けているらしく、柴田家に比べて「武人が少ない」とされる羽柴家にあって清正と共に賤ヶ岳の七本槍として喧伝されている。
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福島正則
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秀吉の家臣。清正と同様に夢ノ助に反感を抱いていたが、正体を知ってからは命令に服従するようになり、海外遠征に加わる。家康が夢暴丸に降伏した頃にはマニラ留守居役の任に就いている。
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福島正則(人型メカ・加藤清正の強化版)
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「婆裟羅2」の記事における「福島正則(人型メカ・加藤清正の強化版)」の解説
22歳。幼名を市松。清正同様、秀吉の下で養育された子飼衆の一人で番長的な存在。勇猛果敢で情に厚く涙もろく直情的かつ一本気の性格。18歳で中国攻めに従軍し、並外れた怪力で猛将ぶりを発揮し、兄弟のように育った清正と手柄を競った。坊主あがりで力の弱い石田三成をからかって遊ぶこともしばしばだが、本人に悪気は無いらしい。
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福島正則
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豊臣家の譜代大名。加藤清正と同様に少年時代から戦場を奔走して秀吉の立身を支え、その剽悍さで天下に広く武名を轟かせた。戦場を疾駆すれば無類の猛将ではあるもののしかし思慮は浅く、単純勁烈な猪武者の典型といえる性格。激情家であるだけに豊臣家への想いは忠烈であるが、三成が幼い秀頼を騙して天下の実権を握ろうとしていると家康に吹きこまれたことにより、東軍に力を貸すこととなる。
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