改易と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 00:21 UTC 版)
元和5年(1619年)、家康死後まもない頃、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の上使として牧野忠成と花房正成が江戸芝愛宕下の正則の屋敷に派遣され、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けることとなった。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。 元和6年(1620年)、忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。 寛永元年(1624年)、正則は高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。高井野での生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。 幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。福島家は取り潰されたが、幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。 長野県高山村の高井寺(こうせいじ)にある、改易後の福島正則住居跡 / 山門前より望む。県指定史跡「福島正則屋敷跡」の一つ。 福島正則荼毘所跡 / 福島正則を荼毘に伏した場所の跡地で、長野県高山村にある。村指定史跡。 平等山正覚院(東京都港区三田)に建つ、福島正則・正利父子の五輪塔 / 2019年撮影。
※この「改易と晩年」の解説は、「福島正則」の解説の一部です。
「改易と晩年」を含む「福島正則」の記事については、「福島正則」の概要を参照ください。
- 改易と晩年のページへのリンク