改易・蟄居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:27 UTC 版)
盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが、『土佐物語』などでは改易の原因を家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害したため、家康の怒りを買って領土没収で改易されたとしている。 ただし、井伊直政の書状によると盛親は土佐を没収される代わりに「御堪忍分」という形で替地を与えられる予定であり、盛親の上洛はそれに応じたものだったようだ。しかし接収時に国替えに不満な家臣や吉良・津野などの遺臣一領具足が国元で浦戸一揆を引き起こし、その責任を問われ「御堪忍分」の支給を反故にされ改易という形になったことが伺える。一方で津野親忠殺害の是非については触れられた様子がないので改易の原因ではない。大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、浪人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。 浪人となった盛親は慶長6年に大坂から伏見に移住して大名への復帰運動を慶長10年頃まで続けていた。慶長15年には剃髪して大岩祐夢と称して、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれる、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もあるが、一次史料では確認されていない。慶長17年頃には上立売の柳ヶ逗子で生活をしていた。また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川になり得る危険人物として京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれていた。
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