久武親直とは? わかりやすく解説

久武親直(ひさたけ ちかなお) ????~????

○彦七 内蔵助
◇父:久武肥後守昌源 兄:久武親信 子:久武千助
 兄親信の戦死により土佐長宗我部氏家老を継ぐ。尚、親信は「自分戦死しても、弟には決して後を継がせないでほしい。弟は腹黒く必ずやお家災いとなる」旨言い残していた。しかし、政治力優れたことから重用された。讒言用いて家中牛耳ろうとし、長宗我部氏滅亡遠因作る主家滅亡後、謀略讒言多い佞臣評判が立ち、再仕官当て見当たらず帰農したという。肥後加藤氏仕えたとも?

久武親直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 14:57 UTC 版)

 
久武 親直
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 生年不詳
死没 没年不詳
別名 彦七
官位 内蔵助
主君 長宗我部元親盛親加藤清正
熊本藩
氏族 久武氏
父母 父:久武昌源
兄弟 親信親直
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久武 親直(ひさたけ ちかなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将長宗我部氏の家臣。

略歴

久武昌源の次男として生まれる。才能があり策謀家で長宗我部元親盛親の深い信頼を受けた。天正7年(1579年)、兄・親信土居清良との戦いで戦死すると、親信の遺領と内蔵助の名乗りを継ぐ[1]

天正12年(1584年)、元親より伊予軍代に任命され、宇和郡三間を攻撃、阿波方面では牛岐城主の新開道善丈六寺で謀殺し、中富川の戦いでは渡河時刻を元親に進言して一軍の攻撃を指揮した。また、羽柴秀吉による四国征伐に際しては長宗我部氏の同盟者で東伊予の防備を担っていた金子元宅に対して書状と起請文を送り、結託を固くしている[1]

天正14年(1586年)、秀吉による方広寺大仏殿(京の大仏)造立の際には材木の伐採・搬出の監督を務めたが、このときに吉良親実と不和になったという[1]

天正16年(1588年)、長宗我部氏の後継問題が起こると、親直は元親の意を汲んで盛親の擁立に尽力し、反対派の親実らと争った[1]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、親直は津野親忠藤堂高虎と通じて土佐半国を支配しようとしているとして、盛親に親忠を切腹させるよう進言した。しかし盛親がこれを一蹴したため、親忠の報復を恐れた親直は盛親の命令と偽って香美郡岩村に幽閉されていた親忠を切腹させたという。この事件を耳にした徳川家康は盛親の誅伐を決めるが、井伊直政の取りなしにより盛親は辛うじて死罪を免れた[1]

その後、長宗我部氏の改易が決定すると、親直は浦戸城を死守しようとする長宗我部遺臣の要求を排して降伏の意見を述べた。開城後は肥後国に赴き、加藤清正に仕えて1000石を給せられたが、その変節を非難された[1]

逸話

  • 親信は三間に出陣する際、元親に対し「このたびの合戦で討ち死にしたとしても、私の弟の彦七(親直)には私の跡目を継がせないでください。彦七は将来お家の障りにはなっても、役に立つ者ではありません」と進言したという(『土佐物語』)[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f 山本大 編『長宗我部元親のすべて』新人物往来社、1989年8月10日、44-48,205-206頁。ISBN 4404016247 
  2. ^ 長宗我部友親『長宗我部 復活篇』文春文庫、2016年1月10日、140-141頁。ISBN 9784167905408 



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