吉良親実とは? わかりやすく解説

吉良親実(きら ちかざね) 1563~1588

○新十郎 左京進
◇父:吉良親貞 室:長宗我部元親
 土佐長宗我部一族当主元親の嫡男信親戦死後幼少の四男盛親擁立動き反対して、家老久武親直讒言により、切腹を命ぜられた。

吉良親実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/23 15:12 UTC 版)

 
吉良 親実
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄6年(1563年
死没 天正17年(1589年)9月以降
改名 新十郎(幼名)→親実
別名 受領名左京進
主君 長宗我部元親
氏族 吉良氏
父母 父:親貞、母:吉良駿河守宣直の娘?
兄弟 如淵親実親正、親英?
正室:長宗我部元親の娘
町源右衛門
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吉良 親実(きら ちかざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏の家臣。土佐国戦国大名長宗我部元親の弟で中村城主・吉良親貞の子。吉良城蓮池城[1]

生涯

幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用された。父の死後、その家督を相続し[注釈 1]、一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた[注釈 2]

天正14年(1586年)12月、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序をもってして元親の次男・香川親和を推し、4男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は元親に対してたびたび親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興と共に切腹を命じられたとされる[注釈 3]。だが、親実による天正17年9月10日(1589年10月19日)付の西諸木若一王子の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また、『長宗我部地検帳』の中でも天正19年1月16日(1591年2月9日)の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に直接知行が宛がわれており彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは天正17年9月以降天正19年1月以前であったと推定される[注釈 4]

親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており[注釈 5]、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある[注釈 6]。それゆえか木塚明神や[注釈 7]四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき[注釈 8]は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。

子の吉良貞実は姓を町氏に改め、肥後熊本藩細川氏に仕えたが、細川忠興との間で諍いを起こし、堀田正盛に仕えた。その子らはそのまま肥後細川家に仕えて明治に至り、子孫は「長宗我部」姓を称した。熊本県熊本市にある宗岳寺には「長曽我部町家之墓」が存在している。

脚注

注釈

  1. ^ 親実は「蓮池左京進」を名乗っており、元親は親実を「蓮池氏」として別家させて吉良氏を継がせる考えがなかった可能性もある。実際、元親・親貞の甥にあたる本山某(茂辰と元親の姉の間の次男)が親貞の養子として吉良弥五良貞俵と名乗り(「弥五良」は親貞が若い頃の通称)、貞俵が実兄親茂の戦死で本山氏に戻って本山内記茂慶として家督を継ぐと、今度は元親の実子である千熊丸を吉良氏に入嗣させようとしている[2]。なお、千熊丸こそが後に親実粛清の原因となる長宗我部盛親その人にあたる[3]
  2. ^ 久武との対立は大仏殿建立における木材伐採が原因であるという。
  3. ^ 一族だけではなく親友まで処罰の対象にされた。
  4. ^ 『長宗我部地検帳』のうち天正17年に作成された分から吉良氏の所領が既に他者に宛がわれた記載が確認できることから、親実が天正16年の段階では死を命じられなかったものの所領没収などの処分を受けた可能性が高い[4]
  5. ^ 久武親直自身はともかく、久武一族は親実没後に不幸が相次いだという。
  6. ^ 親実の墓より火が燃え出たり、親実の怨霊伝説から首の無い親実らの軍が大高坂に攻め寄せるなど。
  7. ^ 元親は怪異が続いたために家臣の意見を容れて吾川郡木塚に親実を祀ったという。
  8. ^ 親実の死に連座して殺された党類。

出典

  1. ^ https://kotobank.jp/word/-1071080
  2. ^ 天正18年の弘岡荒倉神社の棟札記載の「吉良千熊丸」
  3. ^ 朝倉慶景「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」『土佐史談』232号、2006年。/所収:平井 2014
  4. ^ 吉村佐織「豊臣期土佐における女性の知行-『長宗我部地検帳』を中心に-」『海南史学』41号、2003年。/所収:平井 2014

参考文献




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