長宗我部の名臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 23:26 UTC 版)
土佐の大名・長宗我部元親の重臣・吉田孝俊の子として誕生。母は鶏冠木大膳大夫の娘。 曾祖父は土佐平定・四国進出で活躍した吉田重俊、祖父は安芸氏・本山氏攻めで功名のある吉田重康。 天正7年(1579年)に阿波の重清城・岩倉城攻めで初陣を果たす。小松島の戦いでは敵に腕を斬られながらも、同輩・桑名親勝の危機を救っている。 同10年(1582年)の中富川の戦いで戦功があったが、父・孝俊が戦死、家督・居城の甲浦城を継いだ。 年代不明だが、安芸郡惣軍代に就任。 同13年(1585年)の豊臣秀吉による四国攻めでは徳島城守将をつとめた。 主家の豊臣家従属後の同14年(1586年)九州征伐に従軍、長宗我部家後継・信親が討ち死にし、動揺する元親を護衛して無事に土佐へ帰還させた。 長宗我部家の後嗣問題では、長宗我部盛親反対派の吉良親実と親しくしていたため、甲浦城を召しはなされ蟄居処分となる。 その後小田原征伐・朝鮮出兵に従い、晋州の戦いで戦功を挙げた。 慶長4年(1599年)5月19日に元親が死去すると、子の盛親に仕える。
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