長宗我部元親期
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「長宗我部元親#生涯」も参照 国親の跡を継いだ21代長宗我部元親の時代に、長宗我部氏は最盛期を迎える。元親は父・国親の遺志を継いで永禄5年(1562年)本山氏を滅ぼし、同永禄6年(1563年)には弟・親貞を吉良氏に入れ併合、同永禄12年(1569年)には安芸氏を滅ぼしている。これまでの間香宗我部氏とは同盟関係にあったが、安芸氏の打倒後、弟・親泰が入嗣し、併合が行われた。また、元亀2年(1571年)津野氏に3男の親忠が養子として入って併合を行った。このように他の六雄(大平氏は一条氏により滅亡)を支配した元親は、土佐一条氏の内乱に乗じ、追放された当主一条兼定に代わって天正2年(1574年)に兼定の子・一条内政を大津城に入れ「大津御所」として傀儡化(かいらいか)した。同天正3年(1575年)に一条兼定が侵攻した時には四万十川の戦いでこれを破り、一条氏の残存勢力を滅ぼして土佐国を完全に平定した。 その後、元親はさらに、白地城を拠点として伊予国や阿波国、讃岐国にも積極的に進出し、河野氏や三好氏を駆逐していき、天正13年(1585年)四国をほぼ統一したとされる。ただし、四国統一を達成したかどうかについては異論がある。しかしながら、同天正13年(1585年)に行われた羽柴秀吉の四国攻めに敗北し、土佐一国に減封される。その後は、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と秀吉に従って転戦する。 従軍した九州征伐では、天正14年(1587年)の戸次川の戦いで元親の嫡男、長宗我部信親が戦死する。元親は世継ぎをめぐっての争いで甥の吉良親実を殺す粛清を行なったうえ、四男の長宗我部盛親に信親の娘を娶らせ、世継ぎとした。このとき次男の香川親和は憤死し、のちに三男の津野親忠も幽閉、殺害されている。なお、これは単なる継嗣騒動ではなく、戦国時代に長宗我部氏の重職を占めた国人勢力が、親泰の死に伴った長宗我部氏内の権力構造(体制)の変化により解体されたという説もある。 家臣所領 (天正15年(1587年)時点。1町 = ~10石) 長宗我部氏直轄領 - 2,300町吉良氏 - 1,300町 津野氏 - 1,000町 片岡氏 - 1,000町 香宗我部氏 - 540町 土佐統一過程で長宗我部氏が臣従化した国人一族は、このように多くの所領を有しており、集権化にあたって障害となったため、粛清されたとも考えられる。この後は、元親死去まで元親と盛親の二頭政治が行われている。 天正15年(1587年)、九州征伐従軍から帰国後、大高坂山(現・高知城のある山)に城を築き、岡豊城から居城を移した。しかし、水はけが悪かったため、天正19年(1591年)に元親は3年で大高坂山城を捨て、浦戸に浦戸城を築いた。ただし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある。 慶長2年(1597年)には、元親・盛親父子により分国法として『長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)』が制定されている。
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