長宗我部元親期とは? わかりやすく解説

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長宗我部元親期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 10:07 UTC 版)

長宗我部氏」の記事における「長宗我部元親期」の解説

長宗我部元親#生涯」も参照 国親の跡を継いだ21長宗我部元親時代に、長宗我部氏最盛期迎える。元親は父・国親の遺志継いで永禄5年1562年本山氏滅ぼし、同永禄6年1563年)には弟・親貞を吉良氏入れ併合、同永禄12年1569年)には安芸氏滅ぼしている。これまでの香宗我部氏とは同盟関係にあったが、安芸氏打倒後、弟・親泰が入嗣し、併合が行われた。また、元亀2年1571年津野氏に3男の親忠が養子として入って併合行ったこのように他の六雄(大平氏一条氏により滅亡)を支配した元親は、土佐一条氏内乱乗じ追放され当主一条兼定に代わって天正2年1574年)に兼定の子一条内政大津城入れ大津御所」として傀儡化(かいらいか)した。同天正3年1575年)に一条兼定侵攻した時には四万十川の戦いでこれを破り一条氏残存勢力滅ぼして土佐国を完全に平定した。 その後、元親はさらに、白地城拠点として伊予国阿波国讃岐国にも積極的に進出し河野氏三好氏駆逐していき、天正13年1585年四国をほぼ統一したとされる。ただし、四国統一達成したかどうかについては異論がある。しかしながら、同天正13年1585年)に行われた羽柴秀吉四国攻め敗北し土佐一国減封される。その後は、九州征伐小田原征伐文禄・慶長の役秀吉に従って転戦する。 従軍した九州征伐では、天正14年1587年)の戸次川の戦いで元親の嫡男長宗我部信親戦死する。元親は世継ぎめぐって争いで甥の吉良親実を殺す粛清行なったうえ、四男の長宗我部盛親信親の娘を娶らせ、世継ぎとした。このとき次男香川親和憤死し、のちに三男津野親忠幽閉殺害されている。なお、これは単なる継嗣騒動ではなく戦国時代長宗我部氏重職占めた国人勢力が、親泰の死に伴った長宗我部氏内の権力構造体制)の変化により解体されたという説もある。 家臣所領天正15年1587年時点。1町 = ~10石) 長宗我部氏直轄領 - 2,300吉良氏 - 1,300津野氏 - 1,000片岡氏 - 1,000香宗我部氏 - 540土佐統一過程長宗我部氏臣従化した国人一族は、このように多く所領有しており、集権化にあたって障害となったため、粛清されたとも考えられるこの後は、元親死去まで元親と盛親の二頭政治が行われている。 天正15年1587年)、九州征伐従軍から帰国後、大高坂山現・高知城のある山)に城を築き岡豊城から居城移した。しかし、水はけ悪かったため、天正19年1591年)に元親は3年大高坂山城捨て浦戸浦戸城築いた。ただし、元親が大高坂山城捨てたとする見解山内氏支配下江戸時代二次史料初め登場したのであること、浦戸城規模小ささ浦戸移転後大高周辺整備進められていた形跡があることから、浦戸城朝鮮出兵対応した一時的な拠点過ぎず大高坂山城整備引き続き行われてたとする説もある。 慶長2年1597年)には、元親・盛親父子により分国法として『長宗我部氏掟書長宗我部元親百箇条)』が制定されている。

※この「長宗我部元親期」の解説は、「長宗我部氏」の解説の一部です。
「長宗我部元親期」を含む「長宗我部氏」の記事については、「長宗我部氏」の概要を参照ください。

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