移転後
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1963年(昭和38年)2月11日の移転祝いに21人が参加したあづま会であったが、その後は会合への参加者は少なくなっていった。1964年(昭和39年)・1965年(昭和40年)にはそれまで年に数回持たれていた会合自体が開かれず、1966年(昭和41年)8月15日に3年ぶりにおろかもの之碑の前に集まって慰霊祭を行い17人が参加したものの、その後は亡くなる会員も多くなり次第に会合は開かれなくなっていった。1978年(昭和53年)に世話役の富沢碧山が亡くなるとあづま会の活動は完全に停止した。 移転後は大通りから目につく場所に「日本唯一おろかもの之碑」の看板が掲げられ観光バスの車内でも紹介されていたというおろかもの之碑も、生前「『おろかもの之碑』は、なんとしても後世に残さなければ」「若い人に管理をゆずって、この碑をまもってほしい」などと語っていたという富沢の遺志に反して、1982年(昭和57年)時点ですでに手入れをする者もなく放置されていたという。富沢の未亡人の手元には、ただあづま会の残金2万円余りだけが残された。
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移転後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:23 UTC 版)
1965年(昭和40年)から教育博物館として公開され、年間約10万人が訪れている。 1965年(昭和40年)住居表示導入にあたって、開智小学校周辺の町名に「開智」を採用し、開智1丁目(鷹匠町、蟻ケ崎東)、開智2丁目(鷹匠町、北馬場、沢村、新田町、徒士町)、開智3丁目(旗町、沢村、徒士町、西町)が新町名となった。開智学校所在地の従前の地名は松本市沢村である。 1987年(昭和62年)10月6日に愛媛県西予市の開明学校と、2005年11月5日に静岡県賀茂郡松崎町岩科の岩科学校と、それぞれ姉妹館提携している。 1991年(平成3年)には、明治時代の洋式住宅である松本市旧司祭館が隣地に移築された。 2019年(令和元年)9月30日付けで校舎が国宝に指定された。
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移転後
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那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初めて発行された新聞「琉球新報」(1893年9月15日創刊)の印刷工場として、1903年(明治36)から1937年(昭和12)まで使用された。 終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線(現国道58号)として整備された。
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