移転後の本院(松原)
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移転先は松沢村松原の約8,500坪の借地で、開通当初の玉川電車下高井戸線山下駅から至近で周囲は一面の麦畑であった。警視庁の許可が下り、旧青山脳病院の火災焼失から約1年半後の1926年(大正15年)4月7日に正式に開業した。郊外へ移転したが、病院名は引き続き「青山」の名称が冠された。 新病院は、精神病患者300名以上を収容する大規模な8病棟で構成された。院長職は引き続き斎藤紀一が務めたが、患者の逃走、放火未遂、器物損壊などの問題が相次いで紀一は所轄の世田谷署にしばしば出頭を命じられ、のちに警視庁から院長の更迭を要求されて1927年(昭和2年)4月25日に婿養子の斎藤茂吉が新院長に就任した。 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)10月に入院患者の放火により発災し、「第4病棟」の1階を全焼して女性患者1名が死亡した。戦争の長期化につれて人員や資材が不足して経営が困難で、茂吉は老いと診療の限界を自覚したことから、松沢病院被災時の予備として打診したのちに東京都へ移譲し、自身は山形の郷里へ疎開した。1945年(昭和20年)5月18日に「東京都立松沢病院 梅ヶ丘分院」となったが、1週間後の5月25日にアメリカ軍の空襲で半焼した。 松沢病院梅ヶ丘分院は1952年(昭和27年)に「東京都立梅ヶ丘病院」として独立し、2010年(平成22年)の閉院まで小児精神病院として診療した。
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