那覇役所跡とは? わかりやすく解説

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那覇役所跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/23 00:49 UTC 版)

那覇役所跡(なはやくしょあと)は、旧那覇の行政を担った役所跡。

歴史

琉球王国時代

港町として発展した那覇は、「那覇四町」とも呼ばれ、東村・西村・若狭町村・泉崎村の4つの村からなっていた。各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世があった。

廃藩置県後

1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、旧那覇里主所(現東町郵便局近辺)に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村(久茂地村含む)・泊村の行政も併せて管轄した。翌年、親見世役所は那覇役所に改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、「里主所前御余地」と呼ばれる、久茂地川沿いの材木等の荷物置き場(敷場)に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。当時の役人は、机・椅子に、欹髻・大帯の琉装姿で、事務を行っていたという。

空襲に至るまで

1917年(大正6)には、京都帝国大学教授武田五一の設計のもと、物見塔と庁舎が建設された。10・10空襲で市役所の庁舎は焼失。1893年(明治26)頃、那覇役所は、東村の旧天使館跡(現那覇市東町、那覇市医師会館一帯)に移転し、1944年(昭和19)10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。

この間、1896年(明治29)に首里とともに区制がしかれ、1921年(大正10)5月20日には、首里区とともに、市制が施行された。1917年(大正6)には、京都帝国大学教授武田五一の設計のもと、物見塔と庁舎が建設された。

移転後

那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初めて発行された新聞「琉球新報」(1893年9月15日創刊)の印刷工場として、1903年(明治36)から1937年(昭和12)まで使用された。

終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線(現国道58号)として整備された。

那覇役所跡の当時の様子と歴史

所在地

現在の那覇市東町にあり、郵便局や百貨店がある大門前(ウフジョーメー)通りに面していた。那覇市久茂地1-4泉崎橋付近。

建築物の観点から

那覇役所は、沖縄初の鉄筋コンクリートの建物で「コンクリート建築のともしびをつけた画期的な建物」。塔は本体と「バットレス(支え柱)」と呼ばれる柱からできていた。

参考文献

  • 『那覇市の史跡・旧跡ハンドブック』ふたば印刷 2014年



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