琉球王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 04:49 UTC 版)
17世紀初頭には琉球王国が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、清から訪れる冊封使の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である踊奉行の玉城朝薫が1719年、能や歌舞伎など日本の芸能を参考にした組踊を創始し、三線・島太鼓・胡弓といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国摂政・羽地朝秀(任期1666年 - 1673年)の影響が伺える。 琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。その為、調弦は男性用になっている。 蛇皮は中国との貿易でもたらされた。乾隆32年(1767年)の輸入品の中には5張の蛇皮が見える。王国時代は貴族や士族といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、漆塗りの箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に床の間に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、芭蕉の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して毛遊び(もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。 那覇の辻・仲島などの遊郭では芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。
※この「琉球王国時代」の解説は、「三線」の解説の一部です。
「琉球王国時代」を含む「三線」の記事については、「三線」の概要を参照ください。
琉球王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 20:57 UTC 版)
糸洲は20代の頃(1850年代)、まず首里手の大家・松村宗棍に師事したといわれる。その頃の松村の弟子には、牧志朝忠(板良敷朝忠)、安里安恒などがいたとされる。糸洲は当初、松村になかなか気に入られなかったため、耐えかねた糸洲は松村のもとを退き、自分より一歳年上の那覇手の長浜筑登之親雲上(武士長浜)に師事するようになった。しかし、長浜の亡くなった後は、長浜の遺言もあり、糸洲は再び松村宗棍に師事することになった。糸洲が松村に再師事したのは、35歳過ぎといわれている。他にも那覇の崎山、泊の松茂良、首里の牧志、佐久間、伊志嶺、安里らと交流をもった。また、糸洲は泊村に住む漂着人・禅南(チャンナン)からも武術を習ったとする説もある。このように、糸洲は、首里手だけでなく泊手、那覇手なども幅広く修行していた。
※この「琉球王国時代」の解説は、「糸洲安恒」の解説の一部です。
「琉球王国時代」を含む「糸洲安恒」の記事については、「糸洲安恒」の概要を参照ください。
琉球王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 14:39 UTC 版)
港町として発展した那覇は、「那覇四町」とも呼ばれ、東村・西村・若狭町村・泉崎村の4つの村からなっていた。各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世があった。
※この「琉球王国時代」の解説は、「那覇役所跡」の解説の一部です。
「琉球王国時代」を含む「那覇役所跡」の記事については、「那覇役所跡」の概要を参照ください。
- 琉球王国時代のページへのリンク