琉球碁士の来訪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 10:27 UTC 版)
薩摩藩支配下にあった琉球から1682年(天和2年)に幕府への使節団が送られ、この中に琉球第一の名手とされる親雲上濱比賀(べいちんはまひか)が含まれていた。濱比賀は道策の名声を聞き及び、島津光久を通じて手合を申し込んだ。道策はこれを受けて島津藩邸にて対戦する。かつて本因坊算砂が朝鮮人李約史を三子で破った例があったが、道策は四子の手合割を指定、道策はこの碁に14目勝ちを収める。濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀2目勝となった。その後濱比賀は免状の発行を望み、道策は「上手(七段)に二子」すなわち三段の力を認める免状を与えた。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られたという。
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