琉球王国・沖縄県とは? わかりやすく解説

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琉球王国・沖縄県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 06:04 UTC 版)

事大主義」の記事における「琉球王国・沖縄県」の解説

琉球王国では明・清王朝から冊封受けていたことから、日本本土よりは事大主義影響強かった朝鮮よりも更に小国であるため、自前兵力だけで他国侵略を防ぐのが困難だったからである。 守礼門扁額守禮之邦」とは、「中華皇帝に対して臣従の礼を守っている国(邦)」を意味しており、琉球事大主義具現化した言葉であった。つまり守礼門とは、朝鮮迎恩門相当する門だったのである琉球国王とその家臣首里城にて三跪九叩頭の礼冊封使に対して行った琉球王国は、明治政府によって沖縄県設置され大日本帝国併合されたが、更にその後沖縄戦によって、「大日本帝国よりも更に強いアメリカ合衆国」を身を以って見せ付けられたことで、沖縄事大主義一つ転機迎えた戦後収容所入れられていた住民らが帰還した際、那覇市にあった山下町が、山下奉文陸軍大将想起させるということからペリー区改称するなど、占領当局迎合し改名が行われた。 そして1960年より米国民政府によって「高等弁務官資金」が設けられた。これは、高等弁務官自由裁量管内市町村資金投入するというものであった市町村首長高等弁務官取り入るべく「琉米親善委員会」を組織し米国民政府推奨する琉米親善」を演出した。高等弁務官地方視察は、さながら君主行幸の観を呈し中には高等弁務官閣下」に万歳三唱する者も出た。 また大宜味朝徳のように、戦前大日本帝国御稜威喧伝して南進論鼓舞し戦後一転して米国民政府威光借りてアメリカ協力の下に「琉球独立」を訴えるなど、常に「宗主国」の意に沿った主張展開する政治家もいた。 一方前述朴正煕大統領批判のように、琉球王国及び沖縄県琉球独立運動における事大主義についても、厳しく批判している者もいる。 『新講沖縄一千年史』を著した新屋敷幸繁は、第二尚氏王統への易姓革命が行われたときに毛興文安里大親)が叫んだ「物呉いゆすど我御主内間御鎖ど我御主(物をくれる方こそ我ら主君内間御鎖(後の尚円)殿こそが我ら主君)」は、実力者迎合し利権群がり人権無視した行為正当化したスローガン他ならない、と厳し筆誅加えている。 沖縄学大家伊波普猷も、自著古琉球』で沖縄人欠点として「事大主義」「忘恩気質」を挙げ、他府県人から侮られるのは、言語風俗異なるからではなくこのような県民性であるからだとし、「彼ら(沖縄人)は自分らの利益のためには友を売る、師も売る、場合によっては国も売る」[要ページ番号]「沖縄人市民としても人類としても極々つまらない者である」と強く批判している。 しかしアメリカも、沖縄日本への帰属意識削ぐことはできず、アメリカへの事大主義長く続かず1950年代には本土復帰運動始まり1970年米軍兵士による不祥事交通事故)が立て続け起こったことでピーク達したコザ暴動発生するアメリカ琉球分離しておくことは不可能と考えさせ、1972年沖縄返還日本復帰した

※この「琉球王国・沖縄県」の解説は、「事大主義」の解説の一部です。
「琉球王国・沖縄県」を含む「事大主義」の記事については、「事大主義」の概要を参照ください。

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