前史から琉球王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:20 UTC 版)
縄文時代晩期の遺跡「平安座東(あがり)ハンタ原(ばる)貝塚」は、1956年(昭和31年)に島丘陵東端の畑地から発見された。1968年(昭和43年)に琉球大学により調査が行われ、土器の他に石斧や貝製品が出土したが、発掘調査終了後、石油備蓄基地の建設により消滅した。また平安座島の最高所に位置する「平安座西(いり)グスク」の築城年は不明だが、勝連城の浜川按司の次男の居城と伝承され、『琉球国由来記』には「森城(むいぐすく)」と記されている。西グスクの南西側で土器や青磁、炭化した米穀と麦粒が発見され、また二次的に埋葬された人頭骨も出土している。当グスクは野面積みの石垣で囲まれた内部に祠があり、島民にとって聖地で、重要な拝所となっている。 平安座島の集落は、15世紀初期に西グスクを中心として海岸沿いに移動し、その後に3つの集落(西村渠・古島・新村渠)を形成した。慢性的な水不足により、親雲上らは1791年と1819年に天水田の灌漑用水路工事と水田開発を行い、また1850年代には傾斜面に開田している。島民の八端太良は怪力として知られ、『球陽』(1743年条)には貢納米1石を那覇まで運び、当日のうちに帰島したとされる。さらに彼の兄弟3人で帆船を持ち上げ、平安座島と対岸の沖縄本島を往来したという。
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