前史と初代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 08:26 UTC 版)
「ノース駅 (ボストン)」の記事における「前史と初代」の解説
当初のノース駅は1893年現在地のやや南、コーズウェイ・ストリートに直接面して建てられた。ユニオン駅として各鉄道会社が駅を建設し施設を維持する必要性を排除した。ノース駅の主要な出資者はマサチューセッツ州で1833年に免許が与えられたアンドーバー・アンド・ウィルミントン鉄道を起源に持つボストン・アンド・メイン鉄道(英語版)(B&M)であった。同社はまた、ニューハンプシャー州とメイン州で免許を獲得し合併を進めていった。ボストン・アンド・メイン鉄道(英語版)は19世紀の後半、計算されたキャンペーンを通じ47を超える地域の中小鉄道会社を購入またはリースし、米国北東部の寡占的な鉄道会社となった。ボストンの北や西からボストンにつながる鉄道の多くはチャールズ川を渡りブルフィンチ・トライアングルと呼ばれるゾーンに駅を建設した。コーズウェイ、ノース・ワシントン、メリマックの各通りに囲まれたこの土地はもともとミル池として知られている湿地帯であった。19世紀初頭、チャールズ・ブルフィンチにより新都市開発に対応するため湿地を埋め立てる提案がされ、埋立地は最終的に彼の名前で呼ばれるようになった。ミル池を埋め立てた土は近くのビーコンヒルから運ばれた。 19世紀後半、ボストンに通じる鉄道会社8社うち4社はブルフィンチ・トライアングルに駅を建設した。コーズウェイ・ストリートに沿ってボストン・アンド・ローウェル鉄道(英語版)、イースタン鉄道(英語版)、フィッチバーグ鉄道(英語版)はすべて近接して建設された。それぞれの駅舎はフランス第二帝政様式、イタリア様式、ゴシックリバイバル様式など異なる建築様式にて互いに区別していた。フィッチバーグ鉄道の駅舎は天端がギザギザした城のような塔をもっていた。競合他社とは異なりボストン・アンド・メイン鉄道はコーズウェイ・ストリートから南へ数ブロックのヘイマーケット・スクェアに駅舎を建設した。個々のアイデンティティを作成するというテーマに沿ってギリシャリバイバル様式の駅舎となり、大きなペディメントの中心には旅行者が時刻を確認しやすいように時計が取り付けられていた。 ボストン・アンド・メイン鉄道は1884年イースタン鉄道をリースしてボストンとポートランド間の路線の単独管理権を獲得した。その3年後、ボストン・アンド・ローウェル鉄道をリースしてバーモント州とケベック州に乗り入れすることができた。これらの2つの契約では、これらのサービスを一つ屋根の下で統合するためにユニオン駅の建設に着手した。新しい駅を建設するためにボストン・アンド・メイン鉄道のヘイマーケット・スクェアの駅と旧イースタン鉄道の駅を取り壊した。1900年までフィッチバーグ鉄道はボストン・アンド・メイン鉄道にリースされなかったため、新駅の東に残った。新駅舎はボストン・アンド・メイン鉄道の力を顕示するため大きな凱旋門風の入口がそびえ立つ印象的な新古典主義の駅舎となった。ローマ時代の先例に触発され、ファサードの両サイド、田舎風の礎石に2本ずつ建つイオニア式柱頭を持つ列柱とラウンドアーチが特徴であった。最初のノース駅駅舎はより大きな地上階の待合室やコンコースを持つ駅舎建設ために30数年ほどで取り壊された。
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