玉城朝薫とは? わかりやすく解説

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たまぐすく‐ちょうくん〔‐テウクン〕【玉城朝薫】

読み方:たまぐすくちょうくん

[1684〜1734]琉球官人舞踊家中国冊封使(さくほうし)を歓待するため、踊奉行として組踊(くみおどり)を創作した作品組踊五番執心鐘入」「二童敵討」「女物狂」「孝行の巻」「銘苅子(めかるしい)」など。


玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)

組踊創始者また、古典舞踊集大成した大の功労者である。彼は、尚真王7年忌(1715年)と尚敬王冊封1719年)の踊奉行つとめたが、その間二度江戸上り三度薩摩上り行ったその折りにふれた大和能狂言歌舞伎小歌踊りなどから多くのものを学んだことが、尚敬王冊封踊奉行のときに、組踊創作御冠船踊り構成大い役立ったものだと思われる作品は、「執心鐘入」「二童敵討」「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」の五組(イツクミ)がある。

玉城朝薫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 15:30 UTC 版)

玉城 朝薫(たまぐすく ちょうくん、康熙23年8月2日(1684年9月11日) - 雍正12年1月26日(1734年3月1日))は琉球王国官僚劇作家演出家組踊を創始した。 向氏辺土名殿内十世で唐名は向受祐(しょうじゅゆう)、童名を思五郎といい、尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。

概要

中国からの冊封使をもてなすために踊奉行1718年任命された。奉行職就任後は翌年の重陽の宴にあたり初めて組踊を創作し、上演した。また歌三線にもすぐれ、湛水流を向日長・新里親方朝住に学び、それを子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜に伝えた。

なお朝薫が創作した組踊は朝薫の五番とよばれ、「二童敵討」、「執心鐘入」、「銘苅子」、「女物狂」、「孝行之巻」がそれである。

墓所は浦添市前田にある「玉城朝薫の墓」。

系譜

父:向明禄・玉城里之子朝致の長男として生まれる(母は真鍋)。父が25歳という若さで亡くなったため、祖父:向国柱・玉城親方朝恩の跡を継ぎ9歳にして玉城間切の総地頭となった。室に馬氏浦添親方良意の娘:真加戸をむかえているが、四男三女をもうけたあと離婚。のち継室として大里間切の照屋筑登之親雲上の娘:武樽をむかえ、計五男五女をもうけた。

  • 父:向明禄・玉城里之子朝致
  • 母:章氏真鍋 (朝薫を産んでのち家を出て、阿天麟・与儀親雲上守包に嫁ぐ)
  • 室:馬氏真加戸
    • 長男:向廷瑚・玉城親雲上朝嘉
    • 長女:思乙 (翁氏安谷屋親方盛孟に嫁ぐ)
    • 次男:朝雄 (向氏砂辺里之子親雲上の嗣子となる)
    • 三男:向廷瑛・奥平親雲上朝喜
    • 四男:向廷璋・玉城里之子朝忠
    • 次女:真鍋 (向氏与世川里之子親雲上朝英に嫁ぐ)
    • 三女:思乙 (向文源・与世山親方朝昌に嫁ぐ)
  • 継室:無系武樽
    • 四女:思武太 (毛続熙・豊見嶺親方盛幸に嫁ぐ)
    • 五女:松金 (向氏越来按司朝頴に嫁ぐ)
    • 五男:向廷瓚・玉城朝常 (夭死につき位階称号無し)

経歴(月日は旧暦)

  • 1684年康熙23)8月2日 生まれる。
  • 1688年(康熙27)2月22日 父:向明禄・玉城里之子朝致が亡くなる。
  • 1692年(康熙31)1月19日 祖父:向国柱・玉城親方朝恩が亡くなる。
    • 1月27日 祖父の跡を継ぎ、玉城間切総地頭となる(→玉城里主朝薫)
  • 1696年(康熙35)8月20日 御書院小赤頭となる。
  • 1698年(康熙37)8月8日 御書院若里之子となる。
  • 1703年(康熙42)8月16日 カタカシラを結う。
  • 1704年(康熙43)7月8日 尚氏美里王子朝禎とともに、小姓として薩摩へ上国する。
    • 10月24日 帰国。
  • 1705年(康熙44)5月13日 尚氏越来王子朝奇とともに、小姓として薩摩へ上国する。
  • 1706年(康熙45)1月28日 薩摩藩主 島津吉貴の上意により、軒端の梅を舞う。
    • 4月8日 帰国。
    • 11月17日 御書院当足役となり、黄冠に陞る(→玉城親雲上朝薫)
  • 1710年(康熙49)7月2日 尚氏美里王子朝禎とともに、与力として上国する。
    • 月日不詳 島津吉貴が江戸へ赴くにあたり、毛光国・江田親雲上盛常、毛氏新城親雲上安房とともにお供することを申しつけられ、通訳の任にあてられた。またこのとき何処でも日本語を話してよいと許しを受けた。
  • 1711年(康熙50)3月22日 帰国。
  • 1712年(康熙51)7月17日 尚益王の薨去を知らせる飛脚使として上国する。
  • 1713年(康熙52)3月5日 帰国。
  • 1714年(康熙53)5月26日 尚氏与那城王子朝直、尚氏金武王子朝祐とともに、座楽主取兼通訳として上国する。
  • 1715年(康熙54)4月1日 帰国。
    • 5月8日 尚貞王の七年忌にあたり踊奉行となる。
  • 1716年(康熙55)12月17日 那覇港の浚渫脇奉行となる。
  • 1718年(康熙57)閏8月26日 冊封使の来琉にあたり踊奉行となる。
  • 1719年(康熙58)9月9日 重陽の宴にて組踊「二童敵討」と「執心鐘入」を上演。
  • 1720年(康熙59)5月15日 御物奉行吟味役となる。
    • 6月24日 那覇里主となる。
  • 1722年(康熙61)2月24日 申口方吟味日帳主取となる。
  • 1723年雍正1)2月23日 日帳主取となる。
    • 6月30日 雍正帝の即位と進貢船の覆破を伝える使者として上国する。
    • 9月24日 帰国。
  • 1724年(雍正2)6月15日 御物奉行吟味役となる。
  • 1725年(雍正3)2月2日 御物奉行となる。
  • 1728年(雍正6)2月1日 紫冠に陞る(→玉城親方朝薫)
  • 1729年(雍正7)6月27日 年頭慶賀使として上国する。
  • 1730年(雍正8)11月12日 帰国。
  • 1734年(雍正12)1月26日 死去(享年51)。

関連項目

外部リンク



玉城朝薫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:02 UTC 版)

まんが首里城ものがたり」の記事における「玉城朝薫」の解説

益の時代琉球芸能中興の祖となった人物

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