亀甲墓以前とは? わかりやすく解説

亀甲墓以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:09 UTC 版)

亀甲墓」の記事における「亀甲墓以前」の解説

沖縄では、先史時代から天然洞窟ガマ)や岩陰、あるいは崖(パンタ)に遺体運んで風葬にするのが主流葬制であった後代になると、斜面岩盤人工的に横穴掘り、その入口石積み漆喰で塞ぐ形式横穴墓登場する。この形式は掘込墓と呼ばれる16世紀になると、この掘込墓の正面をさらに切石装飾した破風墓呼ばれる家型の王族墓が登場する玉陵1501年)がその代表例である。士族は、破風墓よりも少し平坦に崩した形式平葺墓(方音:ヒラフチバー)であった。もっとも大掛かりな墓は王士族や豪族有力者限られ平民琉球王国時代入って風葬横穴墓主流であった亀甲墓はこの掘込墓の正面屋根亀甲型に装飾した墓のことで、破風墓外観異なるが構造的にはよく似ている。墓の前部祭祀を行うための墓庭を設けてその周りを石牆(石垣)で囲み、墓庭の正面奥には複数蔵骨器厨子甕)を収めることができる墓室設ける。沖縄では伝統的に個人墓はまれで、亀甲墓も大抵は家族墓か門中墓のいずれかである。 亀甲墓起源中国南部から伝わった唐墓(とうばか)であると言われる。たとえば福建省台湾には、亀甲形をした、亀甲墓によく似た形式の墓がある。もっとも上述通り沖縄伝統的な墓制門中墓・家族墓が主流であるが、中国のそれは個人墓が主流である(近年家族墓も増えている)。 また、一般に墓室設けず蔵骨器地中埋葬し墳丘部の正面に墓牌(墓碑)を建てるなどの点も亀甲墓とは異なっている。それゆえ亀甲墓中国南部から伝えられた墓様式に、沖縄伝統的な墓制融合して独自に発展遂げたのであるといえる亀甲墓祖型にあたる墓としては、羽地朝秀の墓玉城朝薫の墓などが知られている。これらの墓は屋根が、(亀甲形ではなくかまぼこ形をしており、臼(ウーシ)や袖石(スディイシ)など亀甲墓典型的な装飾的要素いくつか欠いてはいるが、全体的なシルエット亀甲墓似ている羽地朝秀の墓羽地御殿の墓)は、父・朝泰の代に国王から拝領したもので、当初は掘込墓であったがのちに現在の亀甲墓似た形に改修された。玉城朝薫の墓正確に向氏辺土名殿内歴代墓で、辺土名家の歴代当主とその家族葬られている。元々の玉城朝薫の墓個人墓(通称一ツ墓)として別にあったが、明治以降現在の墓に合葬されたとみられる発掘調査玉城朝薫厨子甕が見つかっている。戦争上半分が破壊されたが近年修復され往時の姿によみがえった

※この「亀甲墓以前」の解説は、「亀甲墓」の解説の一部です。
「亀甲墓以前」を含む「亀甲墓」の記事については、「亀甲墓」の概要を参照ください。

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