亀甲墓の出現と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:09 UTC 版)
17世紀後半になると、亀甲墓が沖縄で造られるようになる。現存する最古の墓は護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)が知られている(いずれが最古であるかは文献によって意見が分かれる)。 護佐丸の墓(毛氏豊見城殿内の墓)は、元々あった墓が崩壊したため、1686年に現在の墓に造り直した。ここには7世までの当主が葬られ、8世以降は識名墓(那覇市識名)に葬られている。伊江御殿墓は、亡命中国人のタイロウこと曾得魯(そうとくろ、チャンタールー)が風水を見て設計したと言われている。後年造られる他の御殿墓に比べると規模(幅約11m、奥行き約17m)は小さいが、ヒンプン(屏風、墓庭内に設けられた邪気を防ぐ石垣塀)を欠く以外は亀甲墓の主要素をすべて備えている。伊江御殿墓は沖縄戦で一部破壊されたが、戦後修復された。 その後18世紀に入りこの形の亀甲墓が、御殿や殿内といった王士族の間で大流行した。初期の亀甲墓としては、ほかに具志川御殿の墓が9世・今帰仁按司朝季(1667年 - 1724年)の時代に造られたことが家譜の記録にあり、また宜野湾御殿の墓(1738年造墓、元は具志頭御殿一世・小禄王子朝奇の墓)も、造墓年代の古い亀甲墓として知られている。 宜野湾御殿の墓は、沖縄戦で被害を受けたが戦後修復された。墓本体は幅約12m、奥行き約23mと伊江御殿墓より大型化している。低めのヒンプンを備え、墓室屋根のマユのそりは緩やかで優美な曲線を描き、18世紀前半の亀甲墓の典型を示している。明治時代に具志頭御殿より宜野湾御殿へ売却された。 近年米軍から敷地が解放された伊是名殿内の墓(史跡「銘苅墓跡群」の一つ)は、殿内クラスの墓でありながら、南北約30m、東西約22mと、宜野湾御殿の墓よりさらに大型化している(面積比で伊江御殿墓の3倍以上)。造墓年は不明であるが、様式から18世紀まで遡る可能性が指摘されている。ほかに同じく正確な造墓年は不明ながら、18世紀末から19世紀にかけて建造されたと推定される浦添御殿の墓や読谷山御殿の墓も規模の大きな亀甲墓として知られている。 久米村士族の亀甲墓は、概ね首里士族と同様であるが、中には梁氏饒波家の墓図にあるように、マユや袖石は亀甲墓と同じだが、ウーシが4つあり墓庭の形が中国式墳墓の伸手(袖垣)をそのまま取り入れたようなものも存在した。この墓は那覇若狭町の護道院の後ろにあった。 地方では、久米島にある仲村家(屋号・山根)の小港松原墓が1718年に造墓されている。この墓は蔡温(当時・末吉親雲上)が、1716年、中国へ行く途中暴風のために久米島に立ち寄った折、風水を見て墓地を選定したことが墓碑に記されている。マユの下に垂木がついた珍しいタイプの亀甲墓で、首里・那覇から石工を呼び寄せて造ったらしく、身分は平民(百姓)とはいえ代々地頭代(村長)を務めてきた地方の名家の財力が偲ばれる。 亀甲墓は当初は規模に制限がなく次第に巨大化していったので、1735年、墓地の広さが制限され、士族は12間角(約23.6m角、約558m2(約169坪))、平民は6間角(約11.8m角、約140m2(約42坪))と定められた。また当初は平民(夫地頭など地方役人の家柄)にも建造が許されていたが、後に士族のみに制限された。
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