羽地朝秀の墓とは? わかりやすく解説

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羽地朝秀の墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 01:47 UTC 版)

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羽地朝秀の墓

羽地朝秀の墓(はねじちょうしゅうのはか)は、沖縄県那覇市首里平良町の通称チャーギ山にある琉球王国摂政羽地王子朝秀の墓である。墓様式は亀甲墓の祖型をなす独特の形をしている。

概要

戦前の羽地朝秀の墓(1933年撮影)

羽地朝秀の墓は、正確には朝秀個人の墓ではなく、琉球王族羽地御殿の歴代墓(家族墓)である。羽地御殿は、小禄御殿二世・尚弘業・浦添王子朝喬の三男・羽地王子朝元を系祖とする御殿(うどぅん、王家分家)である。

羽地朝秀の墓は、朝秀の父・朝泰の代に国王から拝領したもので、当初は堀込墓であったが、後年現在の亀甲墓の形に似た姿に改修されたといわれる。形は亀甲墓に似ているが、屋根は亀甲形ではなく、かまぼこ形をしており、亀甲墓に特有の臼(ウーシ)や袖石(スディイシ)といった諸要素も欠いている。

また、亀甲墓に比べて、地面からマユ(眉)と呼ばれる墓室正面の屋根までの高さも高く、墓口も大きい。墓室前には庭を囲む袖垣があるが、戦前の写真と比べると、上部が崩壊したのか高さが低くなっている。墓口近くの墓庭には「贈 正五位 羽地朝秀之墓」の文字を刻んだ石碑が1922(大正11)年に建立されている。

羽地朝秀の墓は、玉城朝薫の墓同様、亀甲墓の祖型をなす墓様式と位置づけられているが、改修年は護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)より以前であったのか、正確には分かっていない。

参考文献

  • 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典』下 沖縄タイムス社 1983年
  • 浦添市教育委員会編『玉城朝薫の墓調査報告書』 浦添市教育委員会 1989年

関連項目

外部リンク

座標: 北緯26度13分43秒 東経127度43分02秒 / 北緯26.228571度 東経127.717263度 / 26.228571; 127.717263




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