たま‐うどぅん【玉陵】
玉陵(沖縄県)
玉陵
名称: | 玉陵 |
ふりがな: | たまうどぅん |
名称(棟): | 墓室 |
名称(ふりがな): | ぼしつ |
番号: | 1845 |
種別1: | 近世以前/神社 |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
指定年月日: | 1972.05.15(昭和47.05.15) |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
代表都道府県: | 沖縄県 |
都道府県: | 沖縄県那覇市首里金城町1-3 |
所有者名: | 那覇市 |
指定基準: | |
管理団体名: | |
管理団体住所: | |
管理団体指定年月日: | |
構造形式: | 石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属 |
時代区分: | 室町後期 |
年代: | 弘治14(明)(1501) |
解説文: | 弘治14年(1501)建設の墓室と石牆からなる尚円王統歴代の陵墓。墓室は、洗骨前の遺体を安置する中室、王と王妃の遺骨を安置する東室、その他王族の遺骨を安置した西室より構成され、その周囲を石牆で囲む。墓室正面は切石積で、中央に石扉を構える。意匠、構造に見所を持ち、沖縄における最大規模の墓の遺構。 玉陵は沖縄における最大、最良の墓陵で建築としてもその意匠、構造に見るべきものがあり、また、石獅子をはじめとする石造彫刻や石碑も見事である。 |
玉陵
名称: | 玉陵 |
ふりがな: | たまうどぅん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 沖縄県 |
市区町村: | 那覇市首里 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1972.05.15(昭和47.05.15) |
指定基準: | 史7 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S47-5-172[[玉陵]たまおどん].txt: 首里城西方の丘陵上にあり、尚真王が先考尚円の遺骨を[[見上森]みあげのもり]より移送するために築造したのに始まり、尚円王統歴代の陵墓となった。現在も外郭にたっている「たまおどんのひのもん」(弘治14年、1501)によれば、尚真は、その王統のうち、尚真・尚真妹・尚清およびその兄弟ら9人の子孫は永久に玉陵に葬られる資格ありとし、尚維衡とその子孫のみ除外した。これは尚円-尚真-尚清の王位継承を明らかにしたものである。内郭の自然崖壁を利用して築造した三墓堂は、中央には洗骨前の遺骸をいれ、その左には洗骨後の王・王妃、右にはそれ以外の家族の遺骨を納めた。今次大戦でかなり破壊されたが、内外郭と墓堂はさすがに堂々たるもので、沖縄の歴史・墓制を考えるうえにきわめて貴重である。 |
玉陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/08 14:14 UTC 版)
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玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。
概要
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。
第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、「玉陵」5棟(墓室3棟、石牆2棟)が国宝(建造物)[2][3]、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている[4]。
被葬者
玉陵内には被葬者としての資格を記した碑、いわゆる玉陵の碑文があり、それによると有資格者とは
- 尚真王
- 宇喜也嘉(尚円王の妃、尚真王の母)
- 聞得大君・音智殿茂金(尚真王の妹)
- 佐司笠按司・真鍋樽(尚真王の長女)
- 尚清王(尚真王の世子)
- 尚韶威・今帰仁王子朝典(尚真王の三男)
- 尚龍徳・越来王子朝福(尚真王の四男)
- 尚享仁・金武王子(尚真王の六男)
- 尚源道・豊見城王子(尚真王の七男)
の子孫だとされる。これは尚真王が生存中は守られていたであろうが、子の尚清王は即位ののち、すぐにこの碑文の内容に反し、廃嫡された兄:尚維衡・浦添王子朝満を玉陵に移葬している。また、各王子の子孫もここには葬られず、それぞれ各家で墓所をもっている。
例外を除き、基本的に被葬者は歴代王と王妃であると思って良い。第二尚氏・第二代国王 宣威は初代王(尚円王:金丸)の15歳年下の実弟であるにもかかわらず、玉陵には入れてもらえず、越来の地(現・沖縄市嘉間良3丁目、学校給食センター近く)にあるので、実質的に金丸と宇喜也嘉の家族の墓であろう。
1931年、尚家20代当主尚典の夫人:祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいない。
以下は、玉陵の被葬者の一覧である。[5]
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建築
- 墓室(東室・中室・西室)
- 前門
- 後門
- 玉陵碑
- 玉陵奉円館(展示館)
ギャラリー
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東室
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中室
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西室
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前門
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後門
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玉陵奉円館
玉陵以外の尚家墓所

歴代王の中で、2代尚宣威王、7代尚寧王の二名は、玉陵に葬られてはおらず、尚寧王は浦添市仲間にある浦添ようどれに、尚宣威王は沖縄市八重島にそれと伝わる墓がある。
なお、玉御陵には尚円王の父・尚稷とその妻が埋葬されていると伝わる。
伊是名玉陵は伊是名島の伊是名城の麓に現存し、尚真王代に築造、1688年に石造[7]となったと伝わる。なお、尚円王伊是名出身説とともに、その両親の埋葬についても疑問点が多く、これは単に銘刈家の墓という説もある。その他、歴代の神女、2005年には21代尚昌の長女である井伊文子、また22代尚裕が葬られた。
山川の玉陵(山川陵とも。首里の西隣の首里山川町に現存)は王家の脇墓で、夭死して玉陵に葬られなかった者などの墓所であった。19代尚泰王の七男である尚時などもそこに葬られている。
関連項目
脚注
- ^ 文化財課要覧(平成28年度版) - 沖縄県教育委員会
- ^ 平成30年12月25日文部科学省告示第230号
- ^ 「国宝・重要文化財(建造物)の指定について」(文化庁サイト、2018年10月19日発表)
- ^ 琉球・沖縄歴史文化館(玉陵)
- ^ “沖縄の世界遺産玉陵被葬者一覧” (2005年10月). 2008年8月24日閲覧。
- ^ “<沖縄の伝説ぶらり歩き> 悲劇の占い師・木田大時 ~ 南城市玉城前川と世界遺産「玉陵」”. 2019年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年11月3日閲覧。
- ^ 沖縄タイムス(2017年5月19日)
外部リンク
座標: 北緯26度13分05.9秒 東経127度42分53.1秒 / 北緯26.218306度 東経127.714750度
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