室町時代後期
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応永23年(1416年)、関東公方足利持氏(満兼の子)と管領上杉禅秀(氏憲)が争い、禅秀は満隆(満兼の子)を擁立して持氏を放逐した。これに対して、幕府、稲村公方満貞、下総結城氏は持氏を、篠川公方満直は禅秀を支持して衝突が起こり、結局、禅秀は自害した。田村清包の死後、没落し、下総結城氏の庇護を受けていた田村庄司家も、持氏・幕府側だったため、その地位を保証された。また、小野保は、正長年間(1428-1429年)に、持氏より石川駿河守孫三郎に宛われたが、まもなく、一部が岩城周防守らに渡された。その後、永享10年(1438年)、将軍職を望み果たせなかった関東公方足利持氏と将軍義教が対立した(永享の乱)。反庄司派と目される田村遠江守は、伊達持宗、蘆名盛久、結城満朝・氏朝父子などとともに篠川公方満直に応じて将軍側に加わり、一方、田村近隣の国人、石川・相馬・二階堂庶流、田村庄司家などは、稲村公方満貞に応じて持氏側に付いた。結局、持氏は破れ、自害し、関東府は滅亡した(1439年)。持氏派だった稲村公方満貞は自害し、庄司田村氏も征伐を受けた。一方、南奥の国人を幕府側に付けるのに活躍した篠川公方満直は、持氏死後の翌年、庄司田村氏の一族とみられる田村刑部大輔利政らによって殺された(1440年)。 関東では持氏の遺児成氏が幕府に認められて関東公方となったが、管領の上杉憲忠と対立し、これを謀殺した。幕府は管領上杉顕房を支援するとともに、成氏を廃し、足利政知を新公方として伊豆に下向させた。関東の国人たちは、成氏(古河公方)、政知(堀越公方)のいずれかを奉じて戦闘を交えた。陸奥の国人たちにも、成氏を征伐せよとの将軍義政からの再三の催促があったが、出陣しなかった。田村庄では、長禄4年(1460年)、田村次郎が、また、応仁元年(1467年)、田村太郎が軍勢催促を受けています。 15世紀中葉、南奥では、白川結城氏朝、および、その猶子直朝が四隣に影響力をふるった。田村直顕は宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど、田村庄内での地歩を固めていた。一方、白川結城氏は、永正7年(1510年)、当主政朝(直朝の子)が、有力庶子家小峯家の当主朝脩を攻殺すると、朝脩の父直常が政朝を放逐するなど、内訌によって力を失い、田村家はここに結城氏の支配を脱し、戦国大名へと成長していった。
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室町時代後期
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宗全の死後、家督は孫(四男とも)の山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退してゆく。領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、播磨、備前、美作は赤松政則(赤松満祐の大甥)に奪われ、政豊は奪回を企てるが1488年(長享2年)に敗れ、播磨から撤退した。さらに備後守護の嫡男・山名俊豊や備後国人衆とも対立した。
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室町時代後期
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戦国時代になると、「中興の祖」と呼ばれる佐野盛綱が出て、周辺へ勢力を拡大していった。佐野家の分裂は盛綱の下で解消されていたとみられる。 古河公方の足利義氏が後北条氏(小田原北条氏)に軟禁されるなど衰退したため、佐野氏も後北条氏の影響下におかれるようになり、そのため後北条氏と敵対する関東管領上杉謙信の侵略にたびたびさらされるようになった。佐野豊綱・佐野宗綱の代には一定の独立した勢力を保ち、天正10年(1582年)に織田家の滝川一益が上州入りを果たすと一族の天徳寺宝衍(佐野房綱)がその側近となり、佐野氏は織田家に通じた。滝川氏が敗れた神流川の戦いにも佐野氏は参加している。 滝川氏が敗れ上野国に後北条氏が進出すると、それに反発した佐野氏は後北条方との対立を深め、天正13年(1585年)に後北条方の長尾顕長と戦うが、この合戦で当主佐野宗綱が戦死してしまった。宗綱には娘しか無く、その婿たる後継の養子先について家中は佐竹氏派と後北条氏派に分裂した。結局、後北条氏から養子(北条氏忠)を迎えその傘下となったが、それに反発した天徳寺宝衍や山上道及ら佐野家中の佐竹氏派の重臣が出奔している。その後、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原北条氏追討の争い(小田原征伐)に際し、実家の北条氏側に付いた佐野(北条)氏忠は本家共々降伏した。天徳寺宝衍が出奔後に豊臣秀吉へ仕えていたため、佐野家の家督は房綱およびその養子佐野信吉が継承し、大名として存続した(佐野藩)。 しかし、慶長19年(1611年)、信吉実兄の富田信高改易に連座および自身の不行跡を理由として、佐野信吉は改易処分となり、信濃国松本に配流され、大名としての佐野氏は終焉した。のちに信吉は許され、嫡子・久綱の子孫が江戸幕府旗本寄合3千500石として幕末に至った。信吉の次子・公當は兄の久綱から分与を受け、この系統も旗本として存続した。
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室町時代後期
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室町時代後期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。 そして島津氏一族の中から伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭して他家を上回った。 忠良の子の貴久は一時期薩摩大隅守護家の14代忠兼(後の勝久、12代忠治・13代忠隆の弟)の養子として迎えられる。しかし勝久は実久に誑かされ、守護復帰を目論んで貴久との養子縁組を解消した。ただし、近年の研究では傍流から当主になった勝久と重臣達の確執の存在や勝久に反発する重臣たちの中には貴久や実久を擁立する動きがあったこと、実久が一時期守護家当主および薩摩大隅守護として迎えられて国内をほぼ掌握していた時期が存在したことが明らかになっている。 その後、勝久は実久により薩摩を逐われて、母方の実家である大友氏を後ろ盾として頼み豊後国へと亡命する。 伊作忠良・貴久親子は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。前述の研究では、この際に実久が重臣たちの擁立によって勝久に代わって守護に就任した事実は消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。
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