室町時代後期とは? わかりやすく解説

室町時代後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 22:39 UTC 版)

田村地方」の記事における「室町時代後期」の解説

応永23年1416年)、関東公方足利持氏(満兼の子)と管領上杉禅秀(氏憲)が争い、禅秀は満隆(満兼の子)を擁立して持氏を放逐した。これに対して幕府稲村公方満貞、下総結城氏は持氏を、篠川公方満直は禅秀を支持して衝突起こり結局、禅秀は自害した田村清包の死後没落し下総結城氏庇護受けていた田村庄司家も、持氏・幕府側だったため、その地位保証された。また、小野保は、正長年間(1428-1429年)に、持氏より石川駿河守孫三郎に宛われたが、まもなく、一部岩城周防守らに渡された。その後永享10年1438年)、将軍職望み果たせなかった関東公方足利持氏将軍義教対立した永享の乱)。反庄司派と目される田村遠江守は、伊達持宗蘆名盛久結城満朝・氏朝父子などとともに篠川公方満直に応じて将軍側に加わり一方田村近隣国人石川相馬二階堂庶流田村庄司家などは、稲村公方満貞に応じて持氏側に付いた結局、持氏は破れ自害し関東府滅亡した1439年)。持氏派だった稲村公方満貞は自害し庄司田氏も征伐受けた一方、南奥の国人幕府に付けるのに活躍した篠川公方満直は、持氏死後の翌年庄司田氏の一族とみられる田村刑部大輔利政らによって殺された(1440年)。 関東では持氏の遺児成氏が幕府認められ関東公方となったが、管領の上憲忠と対立し、これを謀殺した。幕府管領上杉顕房支援するとともに、成氏を廃し足利政知を新公方として伊豆下向させた。関東国人たちは、成氏(古河公方)、政知(堀越公方)のいずれか奉じて戦闘交えた陸奥の国人たちにも、成氏を征伐せよとの将軍義政からの再三催促があったが、出陣しなかった。田村庄では、長禄4年1460年)、田村次郎が、また、応仁元年1467年)、田村太郎軍勢催促受けてます。 15世紀中葉、南奥では、白川結城氏朝、および、その猶子直朝が四隣影響力ふるった田村直顕は宝徳3年1451年)から記録見え結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど、田村庄内での地歩を固めていた。一方白川結城氏は、永正7年1510年)、当主政朝(直朝の子)が、有力庶子家小峯家の当主朝脩を攻殺すると、朝脩の父直常が政朝を放逐するなど、内訌によって力を失い田村家はここに結城氏支配脱し戦国大名へ成長していった。

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室町時代後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:33 UTC 版)

山名氏」の記事における「室町時代後期」の解説

宗全の死後家督は孫(四男とも)の山名政豊継いだものの、宗全死去応仁の乱などによって一族勢力急速に衰退してゆく。領内では毛利次郎の乱はじめとする国人による反乱が相次ぎ播磨備前美作赤松政則赤松満祐大甥)に奪われ、政豊は奪回企てる1488年長享2年)に敗れ播磨から撤退した。さらに備後守護の嫡男山名俊豊や備後国人衆とも対立した

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室町時代後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 00:02 UTC 版)

佐野氏」の記事における「室町時代後期」の解説

戦国時代になると、「中興の祖」と呼ばれる佐野盛綱出て周辺勢力拡大していった。佐野家分裂盛綱の下で解消されていたとみられる古河公方足利義氏後北条氏小田原北条氏)に軟禁されるなど衰退したため、佐野氏後北条氏影響下におかれるようになり、そのため後北条氏敵対する関東管領上杉謙信侵略にたびたびさらされるようになった佐野豊綱佐野宗綱の代には一定の独立した勢力保ち天正10年1582年)に織田家滝川一益上州入りを果たすと一族天徳寺宝衍佐野房綱)がその側近となり、佐野氏織田家通じた滝川氏敗れた神流川の戦いにも佐野氏参加している。 滝川氏敗れ上野国後北条氏進出すると、それに反発した佐野氏後北条方との対立深め天正13年1585年)に後北条方の長尾顕長と戦うが、この合戦当主佐野宗綱戦死してしまった。宗綱には娘しか無く、その婿たる後継養子先について家中佐竹氏派と後北条氏派に分裂した結局後北条氏から養子北条氏忠)を迎えその傘下となったが、それに反発した天徳寺宝衍山上道及佐野家中の佐竹氏派の重臣出奔している。その後天正18年1590年)の豊臣秀吉による小田原北条氏追討争い小田原征伐)に際し実家北条氏側に付いた佐野北条)氏忠は本家共々降伏した天徳寺宝衍出奔後に豊臣秀吉仕えていたため、佐野家家督は房綱およびその養子佐野信吉継承し大名として存続した(佐野藩)。 しかし、慶長19年1611年)、信吉実兄富田信高改易連座および自身不行跡理由として、佐野信吉改易処分となり、信濃国松本配流され、大名として佐野氏終焉した。のちに信吉許され嫡子・久綱の子孫が江戸幕府旗本寄合3千500石として幕末至った信吉次子・公當は兄の久綱から分与を受け、この系統旗本として存続した。

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室町時代後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:45 UTC 版)

島津氏」の記事における「室町時代後期」の解説

室町時代後期に入ると、領域各地国人や他の島津一族による闘争加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。 そして島津氏一族の中から伊作家伊作忠良薩州家島津実久台頭して他家上回った忠良の子の貴久は一時期薩摩大隅守護家の14代忠兼(後の勝久、12忠治13代忠隆の弟)の養子として迎えられる。しかし勝久は実久に誑かされ、守護復帰目論んで貴久との養子縁組解消した。ただし、近年の研究では傍流から当主になった勝久と重臣達の確執存在や勝久に反発する重臣たちの中には貴久や実久擁立する動きがあったこと、実久一時期守護当主および薩摩大隅守護として迎えられ国内をほぼ掌握していた時期存在したことが明らかになっている。 その後、勝久は実久により薩摩を逐われて、母方実家である大友氏後ろ盾として頼み豊後国へと亡命する伊作忠良・貴久親子実久守護職争い遂にはこれを武力退け薩摩大隅制圧した前述研究では、この際実久重臣たちの擁立によって勝久に代わって守護就任した事実消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。

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