戦国大名へ
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天文元年(1532年)6月13日、天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められた際、16日、長唯は兵を送って治種を助け、7月20日、連合軍を破って大勝した。 天文2年(1533年)2月20日、大宮司を追われた阿蘇惟長(菊池武経)の息子で、堅志田城主の阿蘇惟前は、相良氏との連携を求めて、政略結婚を要請した。長唯はこれを許して、4月15日、長女を惟前に嫁した。 天文3年(1534年)1月16日から3月10日にかけて、長唯は現在の八代市古麓町上り山に鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)を築かせ、ここに居を移して、城下町も整備させた。 天文4年(1535年)3月16日、阿蘇惟前と名和武顕の軍が豊福の大野で合戦し、長唯は阿蘇勢に味方して、宇土勢を撃退したので皆吉武真は豊福城を棄てて撤退。同城は再び相良氏の手に落ちた。その後、長唯と名和武顕は互いに契状を交わし、長毎の代に大友義鑑の仲介によって交わされたが、内紛によって反故とされた相良氏と名和氏との和解の約束を再確認した。 同年4月8日、頼興が弟の長種を暗殺した。(この事件に関する長唯の立場や考えは不明) また同じく頼興は、5月18日に使者を遣わして武顕の娘と長為(晴広)の政略結婚をまとめて、翌年12月22日、入輿となった。これによって両家の仲はより強固となった。 これより前、肥後国では守護の菊池氏が内証により没落し、豊後の大友氏が勢力を伸張していた。菊池氏では菊池武経が出奔した後に分家から詫摩武安の子武包を迎えたが、永正17年、大友義鑑は菊池氏家臣団と謀ってこれを放逐して、代わりに弟・大友重治を入れて菊池義宗(義武)を名乗らせて当主としたが、義宗もまた菊池氏家臣団と争って天文3年(5年とする異説もあり)に隈府城を追われて、相良氏に庇護を申し出た。以前から長唯と義宗、隈本城主鹿子木三河守親貞および肥前松浦氏とは連携しており、翌年12月、高来郡より八代を訪れた義宗は、長唯と鷹峯城で会見。同盟を強固とし、高来に帰って後に義宗は義武と改名する。 八代では長唯・武顕・義武の三者はしばしば会見するなどして友好的な関係が維持された。特に義武は相良氏との親交を密にした。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。8月24日、義武は世子の鬼菊丸の元服を八代白木社で行い、菊池則治とした。 天文8年(1539年)3月30日、予てより建造中の渡唐船・市木丸が完成したので、八代徳淵(徳淵津)で進水式を行った。徳淵は長唯の時代から相良氏の国内・海外貿易の拠点として発展し、この地域で最大の貿易港となった。長唯は、幕府の対明貿易を一手に任された周防の守護大名大内義隆と友誼を結び、船団護衛などの名目を取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことが伺える。 この頃、大友氏の肥後国への影響力の拡大は年々強まっていたので、同年12月22日、これに対抗するために相良氏・阿蘇氏・名和氏は義武を奉じて大友と戦う旨の盟約を締結した。翌年4月に義武が隈本・隈庄を制圧して木山城を攻めると、大友義鑑は驚いて、偽計によって相良氏と名和氏を戦わせようとしたが、盟約によって通じていた両者はこれを見抜いて動かなかった。 天文10年(1541年)に宇土で兵乱が起こると、長唯は兵を出して鎮定に協力したが、天文11年6月15日、(理由は不明ながら)長為(為清)夫人が破鏡不縁を申し出て宇土に帰ってしまったため、相良氏と名和氏と再び不和となり、天文12年1月26日、名和勢が小川に侵攻。相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。 第12代当主為続の弟頼泰が長享元年(1487年)に反乱を起こした際に、長泰の弟で、幼年故に助命された松千代丸(長弘)の子の治頼は、長じて長唯に仕えて、八代岡の地頭となっていたが、これが天文14年(1545年)に犬童頼安や宮原玄蕃らと共謀して謀反を起こした。治頼は人吉を目指したが、途中で妨害を受けて真幸院に向い、それから多良木の鍋城に入ろうとしたが、拒否されて通報された。長唯は追討を命じ、耳取原で合戦して撃破。治頼は日向に逃れ、ついで豊後に落ち延び、同地で亡くなった。 同じく天文14年11月27日、朝廷からの勅使・大宮伊治が大内氏の仲介により、船で八代に来航した。12月2日、勅使は長唯に従五位下・宮内大輔を、為清に従五位下・右兵衛佐に叙任した。同時に勅使は将軍・足利義晴から一字拝領として偏諱を許された旨を知らせ、長唯は「義」の字を与えられて名を「義滋」と改め、為清は「晴」の字を与えられて名を「晴広」と改めた。 天文15年(1546年)5月1日、為続、長毎以来の式目を改め、義滋は新たに21ヶ条式目を制定した(相良氏法度)。これは同年8月3日に家督を譲られた晴広によって引き継がれ、彼の名をもって知られる。 隠居から間もなくして義滋は病によって亡くなった。享年58。法名は蓮乗院了徳永幸。
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戦国大名へ
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15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため守護職である京極政経により、文明16年(1484年)守護代の地位を剥奪され月山富田城を追われた。新たな守護代として塩冶掃部介が月山富田城に派遣されたが、文明18年(1486年)経久は奇襲により月山富田城を奪い返し、不在の守護・京極氏に代わって出雲の支配権を奪取して、尼子氏を戦国大名に発展させた。 永正5年(1508年)に、前将軍・足利義尹(後の義稙)を戴き、大内義興が山陽・山陰・九州勢を率いて上洛すると、細川高国はこれに呼応し、共に入京した。この上洛に経久は従い、京では船岡山合戦に参加している。この時期に、次男・国久は細川高国から、三男・興久は大内義興から偏諱を受けている。さて永正15年(1518年)、経久の嫡男・政久は合戦にて討ち死にし、享禄3年(1530年)、三男・塩冶興久が出雲西部・南部及び備後の有力国人と結託し反尼子勢力として反乱を起こすと、これを鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった。なおこの乱以降、天文8年(1539年)まで、大内氏とは表面上は和睦関係を維持しており勢力拡大の矛先は東に向けられている。主家の庶流とはいえ守護代から成り上がった経久であるが、出雲鉄の事業開発や海上交易を行ない、山陰を中心に勢力拡大に励んだ。
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