戦国大名へとは? わかりやすく解説

戦国大名へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 09:25 UTC 版)

相良義滋」の記事における「戦国大名へ」の解説

天文元年1532年6月13日天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守本氏、大矢野氏の連合軍攻められた際、16日、長唯は兵を送って治種を助け7月20日連合軍破って大勝した天文2年1533年2月20日大宮司追われ阿蘇惟長菊池武経)の息子で、堅志田城主の阿蘇惟前は、相良氏との連携求めて政略結婚要請した。長唯はこれを許して4月15日長女を惟前に嫁した天文3年1534年1月16日から3月10日にかけて、長唯は現在の八代市古麓町上り山鷹峯城鷹ヶ峰城、古麓城)を築かせ、ここに居を移して城下町整備させた。 天文4年1535年3月16日阿蘇惟前名和武顕の軍が豊福大野合戦し、長唯は阿蘇勢に味方して宇土勢を撃退したので皆吉武真は豊福城を棄てて撤退。同城は再び相良氏の手落ちたその後、長唯と名和武顕互いに契状交わし、長毎の代に大友義鑑仲介によって交わされたが、内紛によって反故とされた相良氏名和氏との和解約束再確認した。 同年4月8日、頼興が弟の長種を暗殺した。(この事件に関する長唯の立場考え不明) また同じく頼興は、5月18日使者遣わして武顕の娘と長為(晴広)の政略結婚まとめて翌年12月22日入輿となった。これによって両家の仲はより強固となった。 これより前、肥後国では守護菊池氏内証により没落し豊後大友氏勢力伸張していた。菊池氏では菊池武経出奔した後に分家から詫摩武安の子武包を迎えたが、永正17年大友義鑑菊池氏家臣団と謀ってこれを放逐して代わりに弟・大友重治入れて菊池義宗義武)を名乗らせて当主としたが、義宗もまた菊池氏家臣団争って天文3年5年とする異説もあり)に隈府城追われて、相良氏庇護申し出た以前から長唯と義宗隈本城鹿子木三河守親貞および肥前松浦氏とは連携しており、翌年12月高来郡より八代訪れた義宗は、長唯と鷹峯城会見同盟強固とし、高来帰って後に義宗義武改名する八代では長唯・武顕・義武三者はしばし会見するなどして友好的な関係が維持された。特に義武相良氏との親交密にした。 天文7年1538年4月13日薩摩守島津貴久佐敷来て、長唯・為清親子の饗応受けた8月24日義武世子の鬼菊丸元服八代白木社で行い菊池則治とした。 天文8年1539年3月30日予てより建造中の渡唐船市木丸が完成したので、八代徳淵(徳淵津)で進水式行った。徳淵は長唯の時代から相良氏国内海外貿易拠点として発展し、この地域最大貿易港となった。長唯は、幕府の対明貿易一手任され周防守護大名大内義隆友誼を結び、船団護衛などの名目取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことが伺える。 この頃大友氏肥後国への影響力の拡大年々強まっていたので、同年12月22日、これに対抗するために相良氏阿蘇氏名和氏義武奉じて大友と戦う旨の盟約締結した翌年4月義武隈本隈庄制圧し木山城攻めると、大友義鑑驚いて偽計によって相良氏名和氏戦わせようとしたが、盟約によって通じていた両者はこれを見抜いて動かなかった。 天文10年1541年)に宇土兵乱が起こると、長唯は兵を出して鎮定協力したが、天文11年6月15日、(理由不明ながら)長為(為清)夫人破鏡不縁申し出て宇土帰ってしまったため、相良氏名和氏と再び不和となり、天文12年1月26日名和勢が小川侵攻相良勢も兵を出して交戦して高山でこれを撃退した第12代当主為続の弟頼泰が長享元年1487年)に反乱起こした際に、長泰の弟で、幼年故に助命された松千代丸(長弘の子の治頼は、長じて唯に仕えて八代岡の地頭となっていたが、これが天文14年1545年)に犬童頼安宮原玄蕃らと共謀して謀反起こした。治頼は人吉目指したが、途中で妨害受けて真幸院向い、それから多良木鍋城入ろうとしたが、拒否され通報された。長唯は追討命じ耳取原で合戦して撃破。治頼は日向逃れ、ついで豊後落ち延び同地亡くなった同じく天文14年11月27日朝廷からの勅使大宮伊治大内氏仲介により、船で八代来航した12月2日勅使は長唯に従五位下宮内大輔を、為清に従五位下右兵衛佐叙任した。同時に勅使将軍足利義晴から一字拝領として偏諱許された旨を知らせ、長唯は「義」の字を与えられて名を「義滋」と改め、為清は「晴」の字与えられて名を「晴広」と改めた天文15年1546年5月1日、為続、長毎以来式目改め、義滋は新たに21ヶ条式目制定した相良氏法度)。これは同年8月3日家督譲られた晴広によって引き継がれ彼のをもって知られる隠居から間もなくして義滋は病によって亡くなった享年58法名蓮乗院徳永幸。

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戦国大名へ

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尼子氏」の記事における「戦国大名へ」の解説

15世紀末に守護代継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため守護職である京極政経により、文明16年1484年守護代地位剥奪され月山富田城追われた。新たな守護代として塩冶掃部介月山富田城派遣されたが、文明18年1486年)経久は奇襲により月山富田城奪い返し不在守護京極氏に代わって出雲支配権奪取して尼子氏戦国大名発展させた。 永正5年1508年)に、前将軍足利義尹(後の義稙)を戴き大内義興山陽・山陰九州勢率いて上洛すると、細川高国はこれに呼応し、共に入京した。この上洛に経久は従い、京では船岡山合戦参加している。この時期に、次男国久細川高国から、三男・興久は大内義興から偏諱受けている。さて永正15年1518年)、経久の嫡男・政久は合戦にて討ち死にし享禄3年1530年)、三男塩冶興久出雲西部南部及び備後の有力国人結託し尼子勢力として反乱を起こすと、これを鎮圧し首を取るなど子との関係には色々因縁があった。なおこの乱以降天文8年1539年)まで、大内氏とは表面上は和睦関係を維持しており勢力拡大矛先は東に向けられている。主家庶流とはいえ守護代から成り上がった経久であるが、出雲事業開発海上交易行ない山陰中心に勢力拡大励んだ

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