上洛
上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:48 UTC 版)
元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り、頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁ぐ。重頼の家子2名、郎党30数名が従う。この結婚が義経の無断任官により頼朝の怒りを買い、平氏追討を外された直後である事から、義経を監視する目的との見方もあるが、『吾妻鏡』に「兼日約諾せしむ」とあるように、婚姻自体は以前から決まっていたものである。義経の異母兄・源範頼も義経と同じく比企尼の孫娘を妻としており、郷の母(河越尼)は頼朝の嫡男・万寿(のちの頼家)の乳母である。父・河越重頼と兄弟の河越重房は義経の初陣である源義仲追討に従い、後白河法皇の御所にも義経と共に参院しており、叔父の師岡重経が義経の検非違使任官の式に随行するなど、郷の上洛以前から河越一族が外戚として義経の身辺に仕えた形跡が見られる。細川涼一は頼朝の乳母である比企尼の孫娘でかつ武蔵国留守所総検校職として武蔵国内に大きな勢力を築いていた河越重頼の娘を義経に嫁がせたのは、頼朝による義経への厚意の表れであるとしている。 郷が嫁いで5ヶ月後の文治元年(1185年)2月16日、義経は屋島の戦いに出陣。続く壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして大功を立て、平氏追討の英雄として4月24日に都に凱旋する。しかし5月、頼朝は先の無断任官と自専の振る舞いにより、義経を勘当する。義経は弁明のため、壇ノ浦での捕虜を伴い鎌倉へ向かったが腰越で留め置かれ、頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされる。この仕打ちに義経は怒り、6月に都へ戻る道中で頼朝との断交を宣言した。また、この頃に義経は平時忠の娘(蕨姫)を室に迎えているが、引き続き郷は正室としての地位を保った。
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上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 01:01 UTC 版)
藩は鳥羽伏見の戦いの結果を知らずに、幕府から促された「上阪」に応えるため、慶応4年(1868年)1月中旬に藩主上杉斉憲一行は国境を越え福島に向かった。 だが、そこで鳥羽伏見の戦いの結果の知らせが届き、米沢に引き返すことになり、改めて対応を協議した結果、千坂に上洛を命じた。 慶応4年(1868年)1月20日、千坂は二小隊を率い、周旋方の松本誠蔵・宮島誠一郎・雲井龍雄・山吉盛典らを随伴して上洛し、天機を伺い、薩摩・長州・土佐・肥前・芸州諸藩の重役と会談して国事を談じ合い、3月下旬に朝廷より大隊旗を下賜され、速やかに下向して奥羽鎮撫の任につくよう下命があり、帰国する。
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上洛
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永正5年(1508年)2月、興親は厳島から乗船して海路上洛した。大内義興の支援を受けて帰洛しようとしていた足利義稙の供をするためだった。上洛後の7月5日に長安久を大御前棚守職に、7月8日に野坂才菊を舞師にそれぞれ補任しているが、その年の12月8日、京都において病没した。興親に子は無く、厳島神主家は後継者不在の状況に陥った。
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上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 23:28 UTC 版)
文久3年(1863年)2月8日、再び小石川伝通院に集まった浪士組は江戸を出立して中山道を上洛する。年長者や身体の弱い者は駕籠や馬の利用を許された。 9日、本庄宿に到着。ここで、先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、怒った芹沢が路上で大篝火を焚くという騒動を起こすが、近藤が池田徳太郎と共に芹沢に謝罪して一応の解決を見たと言う。 11日・松井田宿-13日・長久保宿-14日・下諏訪宿-15日・奈良井宿-17日・中津川宿-19日・加納宿-21日・武佐宿-22日・大津宿 23日、京都壬生村に到着。浪士組は各隊ごとに壬生村会所や寺(新徳寺など)、郷士宅(八木家、前川家、南部家など)へ分宿する。近藤勇はこの時6番隊小頭となっている。 壬生村での宿割は次の通りであった。 更隺寺 - 根岸友山ら59人(24日に中村家へ移動) 新徳寺 - 鵜殿鳩翁・清河八郎ら取締役・山本仙之助ら38人 壬生村会所 - 村上俊五郎・柏尾馬之助ら10人 南部家 - 10人 中村家 - 石坂宗順・新見錦ら30人 四出井家 - 30人 八木家 - 近藤勇ら10人 浜崎家 - 10人 柳家 - 12人 近隣農家1 - 9人 近隣農家2 - 9人
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