上洛とは? わかりやすく解説

じょう‐らく〔ジヤウ‐〕【上×洛】

読み方:じょうらく

[名](スル)古くは「しょうらく」》地方から京都へ行くこと。「東山道経て—する」


上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 00:34 UTC 版)

上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。


  1. ^ 平安京初期に左京を洛陽、右京を長安と名付けたかどうかについての議論は「洛中」の記事を参照。
  2. ^ 渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第四章
  3. ^ 渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第五章
  4. ^ 渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第六章
  5. ^ 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』
  6. ^ 藤田達生『本能寺の変の群像』
  7. ^ 小田原城、沼津城、駿府城、田中城、掛川城、浜松城、吉田城、岡崎城、名古屋城、大垣城、彦根城
  8. ^ 大樹寺、伊賀八幡宮、松応寺


「上洛」の続きの解説一覧

上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:48 UTC 版)

郷御前」の記事における「上洛」の解説

元暦元年1184年9月14日頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り頼朝代官として在京していた義経の許に嫁ぐ。重頼の家子2名、郎党30数名が従う。この結婚義経無断任官により頼朝怒りを買い、平氏追討外され直後である事から、義経監視する目的との見方もあるが、『吾妻鏡』に「兼日約諾せしむ」とあるように、婚姻自体以前から決まっていたものである。義経異母兄源範頼義経同じく比企尼孫娘を妻としており、郷の母(河越尼)は頼朝嫡男万寿(のちの頼家)の乳母である。父・河越重頼兄弟河越重房義経初陣である源義仲追討従い後白河法皇御所にも義経と共に参院しており、叔父師岡重経義経検非違使任官の式に随行するなど、郷の上以前から河越一族外戚として義経身辺仕えた形跡見られる細川涼一頼朝乳母である比企尼孫娘でかつ武蔵国留守所総検校職として武蔵国内に大きな勢力築いていた河越重頼の娘を義経に嫁がせたのは、頼朝による義経への厚意表れであるとしている。 郷が嫁いで5ヶ月後の文治元年1185年2月16日義経屋島の戦い出陣。続く壇ノ浦の戦い平氏滅ぼして大功立て平氏追討英雄として4月24日都に凱旋する。しかし5月頼朝先の無断任官自専振る舞いにより、義経勘当する義経弁明のため、壇ノ浦での捕虜伴い鎌倉向かった腰越留め置かれ頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされる。この仕打ち義経怒り6月に都へ戻る道中頼朝との断交宣言したまた、この頃義経平時忠の娘(蕨姫)を室に迎えているが、引き続き郷は正室としての地位保った

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上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 01:01 UTC 版)

千坂高雅」の記事における「上洛」の解説

藩は鳥羽伏見の戦い結果知らずに、幕府から促された「上阪」に応えるため、慶応4年(1868年)1月中旬藩主上杉斉憲一行国境越え福島向かった。 だが、そこで鳥羽伏見の戦い結果知らせ届き米沢に引き返すことになり、改めて対応を協議した結果千坂に上洛を命じた慶応4年(1868年)1月20日千坂は二小隊率い周旋方の松本誠蔵宮島誠一郎雲井龍雄山吉盛典らを随伴して上洛し、天機伺い薩摩長州土佐肥前芸州諸藩重役会談し国事談じ合い3月下旬朝廷より大隊旗を下賜され速やかに下向して奥羽鎮撫の任につくよう下命があり、帰国する

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上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 10:00 UTC 版)

藤原興親」の記事における「上洛」の解説

永正5年1508年2月、興親は厳島から乗船して海路上洛した。大内義興支援受けて帰洛ようとしていた足利義稙の供をするためだった上洛後7月5日長安久を大御前棚守職に、7月8日野坂を舞師にそれぞれ補任しているが、その年の12月8日京都において病没した。興親に子は無く厳島神主家後継者不在状況陥った

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上洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 23:28 UTC 版)

浪士組」の記事における「上洛」の解説

文久3年1863年2月8日、再び小石川伝通院集まった浪士組江戸出立して中山道を上洛する。年長者身体の弱い者は駕籠や馬の利用許された。 9日本庄宿到着。ここで、先番宿割任されていた近藤勇芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、怒った芹沢路上で大篝火焚くという騒動起こすが、近藤池田徳太郎と共に芹沢謝罪して一応の解決見たと言う11日松井田宿13日長久保宿14日下諏訪宿15日奈良井宿17日中津川宿19日加納宿21日武佐宿22日大津宿 23日京都壬生村到着浪士組各隊ごとに壬生村会所や寺(新徳寺など)、郷士宅(八木家前川家南部家など)へ分宿する。近藤勇はこの時6番隊小頭となっている。 壬生村での宿割次の通りであった。 更隺寺 - 根岸友山59人(24日中村家移動新徳寺 - 鵜殿鳩翁清河八郎取締役山本仙之助38壬生村会所 - 村上五郎柏尾馬之助10南部家 - 10人 中村家 - 石坂宗順新見錦30人出井家 - 30人 八木家 - 近藤勇10浜崎家 - 10家 - 12人 近農家1 - 9人 近農家2 - 9

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