上洛 岸矩時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 07:30 UTC 版)
安永7年(1778年)絵師として名を立てようと上京するが、折悪く父が亡くなり一旦帰郷。翌年、母を連れて再度上洛、通称を健亮と改め、翌年斉藤氏の娘菊と結婚。この頃、丹丘、黄筌、李思訓、呂紀などの中国画から学んだことを作品に記し、沈南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学習していった。また、岸家の系図には円山応挙の名は全く出てこないが、円山派を独学で学んだか、原在中が応挙の弟子ではないと偽ったのを岸駒は詰問し、応挙の息子応瑞の家に行って門人帳を見せて貰うと、在中自筆の入門名簿があったという逸話(『古画備考』)から、岸駒も上洛当初は応挙に師事」していたとも考えられる。再上洛から3年後の天明2年(1782年)版『平安人物誌』に名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たす。以後も『平安人物誌』に死の年の版まで漏れ無く岸駒は記載されており、生涯京都を代表する絵師であり続けた。
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