上洛と拝謁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 12:16 UTC 版)
南隣の美濃国を斎藤氏から奪った織田信長は永禄11年(1568年)に上洛を果たすと、永禄13年(1570年)2月(4月23日に元亀に改元)、姉小路嗣頼に対して上洛を命じた。頼綱は、加治田城主で頼綱の親族であった斎藤利治と斎藤利堯を通じ、父の名代かつ信長の親族として上洛した。4月には小御所で正親町天皇に拝謁し、任官の御礼をした。同月14日、信長が建てた足利義昭の二条城の落成を祝う能楽開催の際、「飛騨国司 姉小路中納言」として参加した。 永禄13年(1570年)2月、父・姉小路良頼の名代として上洛する。「姉小路中納言殿 同飛騨国衆」と記録されている。。 3月1日、山科言継や三条公仲、織田信長らが将軍足利義昭に祗候した際の多くの武家衆・公家衆の中に「公家衆」として頼綱が記されている。同日、信長が禁裏に参じた際、同行した。 3月3日、将軍足利義昭に祗候した多くの武家・公家の中で、公家衆の一人として「姉小路侍従」として記録されている。祗候の順は公家衆は武家衆の後であった。 3月4日、土御門有脩と共に頼綱が山科言継邸を訪れた。 4月1日、信長が足利義昭のために急造した武家御所の落成祝儀として猿楽の宴が開かれ、幕府の御供衆・御走衆および外様衆・公家御相伴衆などが招かれた。織田信雄・徳川家康・畠山高政・一色義道・三好義継・松永弾正・北畠具教ら諸衆と共に頼綱も陪席した。 4月11日、織田家の祐筆武井夕庵が、頼綱の宿所を訪問した。 4月18日には、頼綱は小御所の正親町天皇に参内し、昇殿の御礼をしている。『御湯殿上日記』には、永禄6年(1563年)3月12日の「侍従」任官の礼として、馬・太刀を献上したと記されている。 このように信長と誼を通じる一方で、元亀3年(1572年)には上杉謙信の要請に応じて越中国に出兵し、上杉氏に通じる姿勢も同時に示した。これは大勢力に囲まれた小勢力の、最前線のパワーバランスを保つための努力と言える。 元亀3年(1572年)11月、嗣頼が上記の越中出兵(尻垂坂の戦い)の直後に病没すると、頼綱は家督を継承した。 天正3年(1575年)、再び上洛し、信長に馬を贈呈している。 天正6年(1578年)3月13日、越中を征服しつつあった上杉謙信が病没すると、上杉氏家中では後継者を巡る内部抗争(御館の乱)が始まったため、越中や飛騨などの隣国への侵攻どころではなくなった。これにより頼綱は本格的に織田陣営に接近し、正式に織田氏と姉小路氏(三木氏)が親族となる同盟を結んだ。
※この「上洛と拝謁」の解説は、「姉小路頼綱」の解説の一部です。
「上洛と拝謁」を含む「姉小路頼綱」の記事については、「姉小路頼綱」の概要を参照ください。
- 上洛と拝謁のページへのリンク