上洛と畿内平定
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義昭が越前に滞在中、織田信長は義昭からの上洛要請を忘れず、それを果たすため、永禄10年には松永久秀と結び、近江の山岡氏や大和の柳生氏にも働きかけていた。また、信長は美濃での戦いを有利に進め、永禄10年8月には斎藤氏の居城・稲葉山城を落とし、翌11年には北伊勢も攻略するなど、着々と準備を進めていた。 そして、義昭は朝倉氏の家臣であった明智光秀の仲介により、信長との交渉を再開した。またこの時、光秀に信長に仕えるよう密命を下した、と桑田忠親は指摘する。信長もまた、家臣の村井貞勝、不破光治、島田秀満らを越前に派遣し、和田惟政もこれに加わっている。 永禄11年7月13日、義昭は一乗谷を出発し、16日には信長の同盟者・浅井長政の饗応を小谷城で受け、25日には信長と美濃の立政寺で対面した。義昭は美濃に入ると、同月28日に多喜越中守に道中の警護を、服部同名中に道中の斡旋をそれぞれ命じ、上洛の準備に入った。 9月7日、信長が尾張・美濃・伊勢の軍勢を率い、美濃の岐阜から京へと出発した。義昭と歩調を合わせて、上洛の準備を整えてからの出兵であった。 9月8日、信長は近江高宮に着陣したが、六角義治が山に逆木をして道を塞いで妨害したため、2、3日を費やした。その後、信長は浅井氏の城・佐和山城に入り、六角氏に「天下所司代」を約束して投降を呼びかけたが、六角氏は三好氏と同盟していたため応じなかった。 9月12日申の刻(午後4時ごろ)、信長は浅井氏とともに六角氏の箕作城を攻めた(箕作城の戦い)。ここで城兵の頑強な抵抗にあったが、信長は兵を入れ替えて攻撃を繰り返し、13日丑の刻(午前2時ごろ)に六角勢が撤退、城を攻め落とした。この戦いは上洛戦で最大の戦いとなった。やがて、箕作城の落城が京に伝わると、京中の人々は戦場になることを恐れ、騒然となった。 9月13日、信長は六角氏の居城・観音寺城を攻めたが、六角義賢・義治父子や城兵は夜陰に乗じて甲賀に逃げており、残兵も降参したことから、難なく城を攻略した(観音寺城の戦い)。六角氏の家臣だった国衆も投降し、江南24郡は織田勢に制圧された。信長は兵を休めるとともに、義昭に近江を平定したことを報告し、義昭もまた、織田軍に警護されて上洛を開始した。 9月22日、義昭はかつて父・義晴が幕府を構えていた近江の桑実寺に入った。同日、信長の先陣が勢多から渡海し、23日に山科七郷に着陣した。 9月23日、信長から守山から園城寺極楽院に入り、大津の馬場・松本に着陣した。義昭も信長の後から渡海し、園城寺光浄院に入った。 9月26日、信長は山科郷粟田口や西院の方々を経て、東寺に進軍したのち、東福寺に陣を移した。また、細川藤孝に御所を守らせた。一方、義昭も東山の清水寺に入り、遂に上洛を果たした。 9月27日、三好方の五畿内と淡路・阿波・讃岐の軍勢が山崎に布陣しているという情報が流れ、信長の先陣を派遣したところ、すでに軍勢は撤退していた。信長は河内方面に軍を進め、山崎・天神馬場に着陣した。義昭は清水寺から東寺に移り、西岡日向の寂勝院に入った。 9月28日、信長は三好長逸と細川昭元が籠る畿内支配の拠点・芥川山城に軍を進め、翌29日にはその麓に放火し、河内の各所も放火した。長逸と昭元は27日夜に逃亡しており、行方知らずになっていた。義昭は天神馬場まで進んでいる。 9月30日、義昭が芥川山城に入城し、将軍家の旗を掲げ、ここから摂津・大和・河内の敵対勢力への征討が行われた。織田軍は大和郡山の道場と富田寺を制圧したのち、摂津池田城に拠る池田勝正を攻め、勝正は子息ら5人の人質を出して恭順した。同日、病気を患っていた14代将軍・義栄が死去した(『公卿補任』)。 10月2日、三好長逸と池田日向守が降参し、義昭に出仕した。また、河内では三好方の飯盛山城と高屋城が降伏し、摂津でも高槻城、入江城、茨木城が攻略されるなど、摂津と河内の制圧が進んだ。 10月4日、松永久秀、三好義継、池田勝正らが芥川山城に「御礼」のために出仕し、久秀には大和一国の支配が認められた。また、同日に興福寺が義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集った。これにより、五畿内は義昭と信長に制圧され、丹波と播磨の国衆も赴いたことで、五畿内近国も同様となった。 10月6日、朝廷が戦勝奉賀の勅使・万里小路輔房を芥川山城に派遣し、義昭に太刀、信長には十肴十荷がそれぞれ下賜された。義昭が芥川山城で各氏の「御礼」を受け、勅使を迎えたことは、三好政権からの政権交代を印象付けた。 10月8日、松永久秀は義昭から細川藤孝と和田惟正、信長から佐久間信盛を大将とする軍勢2万の援軍を受け、総勢3万の軍勢で大和攻略にあたった。久秀はこの援軍を以て、筒井城の筒井順慶や窪城の井戸良弘、十市氏、豊田氏、楢原氏、森屋氏、布施氏、万歳氏などの大和の国人衆を攻めた。これらの国人衆は10月5日に芥川山城に赴いたが、信長は久秀との連携もあって、十市氏以外を赦さなかった。久秀は三好長慶から大和北部の支配を認められていたが、大和一国にその支配を拡大し、義昭からも認められる形となった。この久秀の大和平定は信長の畿内平定戦の一環として行われ、その終結とともに畿内平定戦も集結した。 10月14日、義昭は信長による畿内平定を受けて、信長の供奉を受けて再度上洛し、本圀寺に入った。本圀寺では、公家の菊亭晴季、山科言継、庭田重保、葉室頼房、聖護院門跡の道澄など僧俗数十人が訪れた。なお、当時の人々の間では、新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)。
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