上洛と畿内平定とは? わかりやすく解説

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上洛と畿内平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「上洛と畿内平定」の解説

義昭越前滞在中、織田信長義昭からの上要請忘れず、それを果たすため、永禄10年には松永久秀と結び、近江山岡氏大和柳生氏にも働きかけていた。また、信長美濃での戦い有利に進め永禄10年8月には斎藤氏居城稲葉山城落とし、翌11年には北伊勢攻略するなど、着々と準備進めていた。 そして、義昭朝倉氏家臣であった明智光秀仲介により、信長との交渉再開した。またこの時、光秀信長仕えるよう密命下した、と桑田忠親指摘する信長また、家臣村井貞勝不破光治島田秀満らを越前派遣し和田惟政もこれに加わっている。 永禄11年7月13日義昭一乗谷出発し16日には信長同盟者浅井長政饗応小谷城で受け、25日には信長美濃立政寺対面した義昭美濃に入ると、同月28日多喜越中守道中警護を、服部同名中に道中斡旋それぞれ命じ上洛準備入った9月7日信長尾張美濃伊勢軍勢率い美濃岐阜から京へと出発した義昭歩調合わせて上洛準備整えてからの出兵であった9月8日信長近江高宮着陣したが、六角義治が山に逆木をして道を塞いで妨害したため、2、3日を費やしたその後信長浅井氏の城・佐和山城入り六角氏に「天下所司代」を約束して投降呼びかけたが、六角氏三好氏同盟していたため応じなかった。 9月12日申の刻午後4時ごろ)、信長浅井氏とともに六角氏箕作城攻めた箕作城の戦い)。ここで城兵頑強な抵抗にあったが、信長は兵を入れ替えて攻撃繰り返し13日丑の刻午前2時ごろ)に六角勢が撤退、城を攻め落とした。この戦い上洛戦で最大戦いとなった。やがて、箕作城落城が京に伝わると、京中人々戦場になることを恐れ騒然となった。 9月13日信長六角氏居城観音寺城攻めたが、六角義賢義治父子城兵夜陰乗じて甲賀逃げており、残兵降参したことから、難なく城を攻略した観音寺城の戦い)。六角氏家臣だった国衆投降し江南24郡は織田勢に制圧された。信長は兵を休めとともに義昭近江平定したことを報告し義昭また、織田軍に警護されて上洛開始した9月22日義昭はかつて父・義晴幕府構えていた近江桑実寺入った同日信長先陣勢多から渡海し、23日山科七郷着陣した。 9月23日信長から守山から園城寺極楽院入り大津馬場松本着陣した。義昭信長の後から渡海し、園城寺光浄院入った9月26日信長山科粟田口西院方々経て東寺進軍したのち、東福寺に陣を移したまた、細川藤孝御所を守らせた。一方義昭東山清水寺入り遂に上洛果たした9月27日三好方の五畿内淡路阿波讃岐軍勢山崎布陣しているという情報流れ信長先陣派遣したところ、すでに軍勢撤退していた。信長河内方面に軍を進め山崎・天神馬場に着陣した。義昭清水寺から東寺移り西岡日向の寂勝院に入った9月28日信長三好長逸細川昭元籠る畿内支配拠点芥川山城に軍を進め、翌29日にはその麓に放火し河内各所放火した。長逸と昭元は27日夜に逃亡しており、行方知らずになっていた。義昭天神馬場まで進んでいる。 9月30日義昭芥川山城入城し将軍家の旗を掲げここから摂津大和河内敵対勢力への征討が行われた。織田軍は大和郡山道場富田寺を制圧したのち、摂津池田城拠る池田勝正攻め、勝正は子息ら5人の人質出して恭順した。同日病気患っていた14代将軍・義栄が死去した(『公卿補任』)。 10月2日三好長逸池田日向守降参し義昭出仕したまた、河内では三好方の飯盛山城高屋城降伏し摂津でも高槻城入江城、茨木城攻略されるなど、摂津河内制圧進んだ10月4日松永久秀三好義継池田勝正らが芥川山城に「御礼」のために出仕し、久秀には大和一国支配認められた。また、同日興福寺義昭使者派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず多数寺社安堵求めて芥川山城集った。これにより、五畿内義昭信長制圧され丹波播磨の国衆も赴いたことで、五畿内近国も同様となった10月6日朝廷戦勝奉賀勅使万里小路輔房芥川山城派遣し義昭太刀信長には十肴十荷がそれぞれ下賜された。義昭芥川山城各氏の「御礼」を受け、勅使迎えたことは、三好政権からの政権交代印象付けた10月8日松永久秀義昭から細川藤孝和田惟正、信長から佐久間信盛大将とする軍勢2万援軍を受け、総勢3軍勢大和攻略あたった。久秀はこの援軍を以て筒井城筒井順慶や窪城の井戸良弘十市氏、豊田氏楢原氏、森屋氏、布施氏、歳氏などの大和の国人衆を攻めた。これらの国人衆10月5日芥川山城赴いたが、信長は久秀との連携もあって、十市氏以外を赦さなかった。久秀は三好長慶から大和北部支配認められていたが、大和一国にその支配拡大し義昭からも認められるとなった。この久秀の大和平定信長畿内平定戦の一環として行われ、その終結とともに畿内平定戦も集結した10月14日義昭信長による畿内平定受けて信長供奉受けて再度上洛し、本圀寺入った本圀寺では、公家菊亭晴季山科言継庭田重保葉室頼房、聖護院門跡道澄など僧俗数十人が訪れた。なお、当時の人々の間では、新興勢力である信長義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長御供衆1人であるという認識があった(池田本信長記』)。

※この「上洛と畿内平定」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「上洛と畿内平定」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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