上洛、雌伏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:37 UTC 版)
元亀2年(1571年)等伯33歳の頃、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛、郷里の菩提寺・本延寺の本山本法寺を頼り、そこの塔頭教行院に寄宿した。翌元亀3年(1572年)には、この年に30歳で死去した本法寺八世住職日堯の肖像画『日堯上人像』を描いている。 天正17年(1589年)まで等伯に関する史料は残っていないが、最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していったのもこの頃である。この頃も信春号を用いており、『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)、『武田信玄像』(成慶院蔵)、『伝名和長年像』(東京国立博物館蔵)など優れた作品を残しており、天正11年(1583年)には大徳寺頭塔である総見院に『山水、猿猴、芦雁図』(現存せず)を描いたという記録が残っており、利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという。天正14年(1586年)、豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している。『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。『本朝画史』は1世紀後の、等伯のライバルだった狩野派の著作なので、信憑性にやや疑問が残るが、これが江戸時代における一般的な等伯に対する見方であった。
※この「上洛、雌伏の時代」の解説は、「長谷川等伯」の解説の一部です。
「上洛、雌伏の時代」を含む「長谷川等伯」の記事については、「長谷川等伯」の概要を参照ください。
- 上洛、雌伏の時代のページへのリンク