上洛と秀吉への臣従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
天正16年(1588年)7月19日、輝元は小早川隆景や吉川広家など主な家臣を連れて大阪に到着し、浜の町の布屋に入った。このとき、義昭の使者・真木島昭光が訪れ、輝元に金屏風一隻、樽二十荷、肴十折、帷子二十が贈与された。 その後、同月22日に京都に到着した輝元は曲直瀬道三の屋敷に向い饗応を受けている。この時に輝元から道三に祝儀として銀子100枚、妻の介石に銀子30枚が遣わされている。24日には秀吉と聚楽第で対面した。 そして、同月25日に輝元は内裏に参内し、後陽成天皇から天盃を頂戴され、従四位下・侍従に任官した。さらに28日には参議に転任した。これにより、輝元は清華家の家格を持つ大名として扱われ、朝臣として秀吉の創出した公儀の序列に入った。また、秀吉から豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、羽柴安芸宰相と称されるとともに、完全に秀吉に臣従した。 8月27日、輝元は帰国のため、秀吉の聚楽第を訪問した。 9月10日、輝元は宇喜多秀家に招待され、大阪の屋敷を訪問した。この場には秀吉も臨席した。その後、同日に輝元は安国寺恵瓊や細川幽斎(藤孝)とともに義昭のもとを訪れると、義昭から多年の忠功を謝され、懐旧談にも及んだという。 9月12日、輝元は大坂を出航し、安芸へと帰還した。
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