上洛後の活躍
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永禄2年(1559年)、信長が初めて上洛した際に80名の随行者の1人として同行。この時、斎藤義龍の命を受け信長を暗殺しようと追いかけてくる美濃衆の集団がいたが、清洲の丹羽兵蔵という者の機転で彼らの目的が判明し、兵蔵は金森長近と頼隆にこれを通報。信長の命を受けた長近と兵蔵は刺客達の宿に行って既に事が露見していることを告げて、目論見を阻止した。 永禄11年(1568年)、信長の上洛においては部将の1人として一隊を指揮。柴田勝家・森可成・坂井政尚とともに先陣を命じられ、岩成友通の籠もる勝竜寺城を攻めて、協力して敵の首50余りを討ち取った。 上洛後もこの4人組で京機の政務に携わった。同年10月12日には某所に禁制を掲げ、11月5日には伏見荘瑞祐首座知行分の名主百姓に年貢・諸成物を周悦首座に納めるように命じ、永禄12年(1569年)1月24日には公卿・飛鳥井雅敦より、本興寺に陣取りしないように頼まれる。さらに4人組に、佐久間信盛や和田惟政を加えての政務も見られる。 永禄11年10月1日、富田林院(興正寺)に下された制札を確認し、永禄12年2月1日には金剛寺が三好三人衆に味方したことを責めて、罰として兵糧米1,000石を賦課し、同月21日には堺接収の上使を務める等々。この頃、既に頼隆は信長の代表的な部将の1人となっていた。 永禄12年8月、大河内城の戦いに従軍した。 元亀元年(1570年)6月、信長の江北出陣に従軍。21日に浅井長政の小谷城を攻めた後、虎御前山に登って一夜の陣を構えた信長は、柴田勝家・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・頼隆、および近江国内から参陣した諸将に村々・谷云々の隅々まで焼き払わせた。 元亀3年(1572年)4月、三好義継が松永久秀父子と謀って畠山昭高と対立すると、久秀は畠山部将・安見新七郎を攻めて.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}交野(かたの)に砦を築いたので、信長の命令で、柴田勝家・森可成・坂井政尚・頼隆・斎藤利治・稲葉一鉄・氏家直昌・安藤守就・不破光治・丸毛長照・多賀常則、ほか室町幕府15代将軍・足利義昭配下の諸将も加えて、三好・松永方の交野城を攻囲(交野城後巻き)したが、敵は風雨に紛れて脱出した。 同年7月、再び江北出陣に従軍し、信長嫡男・信忠初陣の小谷城攻めに参加して、小谷の町を破った。 元亀4年(1573年)2月、義昭が信長と対立して蜂起を促したので、柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・頼隆の4将は、近江石山城・今堅田城の攻撃を命じられる。甲賀・伊賀衆の籠もる近江石山城の大将山岡景友は降伏し、26日に砦は破却された。29日、強襲を受けた今堅田城は光秀と長秀・頼隆に挟撃されて、落城した。 同年3月29日、信長の京出陣に従い、義昭を脅迫するために、4月2日に洛外の寺社関連の建物を除外して家々に放火した。義昭は一旦これを無視するが、翌日、上京の町を焼き払うと堪らず和議を申し出た。 同年7月、その義昭が再び挙兵して、二条御所には日野輝資・高倉永相・伊勢貞興・三淵藤英らの諸将を置き、自らは槙島城に籠城すると、信長に従って出陣して義昭を追放した。信長はその後、7月28日に天正への改元を行った。 天正元年(1573年)8月、越前朝倉攻め(一乗谷城の戦い)に参加。18日夜、織田家諸将は朝倉勢の退却を見逃し、信長は馬廻りだけを率いて朝倉勢を追撃したが、頼隆も遅れを取って叱責を受けた諸将(滝川一益・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・稲葉一鉄)の1人だった。なお、このときに佐久間信盛は恐縮もせずに自慢話をしたと言い、これが後年の折檻状の罪状の1つにされている。 同年9月、北伊勢攻めに従軍して、信盛・秀吉・長秀とともに西別所城を落城させたが、その後も抵抗を続けた白山の中島将監を攻めて、降伏・退去させた。 天正2年(1574年)3月、東大寺の蘭奢待切り取りにおいて、塙直政・菅屋長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・織田信澄が特使として派遣され、奉行を務めた。 同年7月13日、信長・信忠が諸将を動員して伊勢長島に出陣するとこれに参加。佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・貞通父子と賀鳥口を担当した。その後、勝家・一鉄・貞通と大鳥居城の降伏を認めずに攻め立て、8月2日、激しい風雨の中を脱出しようとした男女1,000人ばかりを斬った。9月29日、兵糧攻めに耐えきれなくなった一向一揆勢は降伏すると言って長島城を退去したが、信長はこれを許さずに囲いに追い込んで焼き殺し、鎮圧した。天正3年(1575年)8月、前年1月より続いていた越前一向一揆の掃討戦に参加した。 「長島一向一揆」および「越前一向一揆」も参照 天正4年(1576年)4月14日、石山本願寺が再び挙兵したので、畿内の軍勢が動員される。本願寺勢は天王寺砦を包囲したので、5月5日、信長は救援のために軽装のまま出陣。信長は若江で軍勢を揃えて一戦に臨んだが、頼隆は滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直昌・安藤守就と共に第二陣に入った。 「石山合戦」および「天王寺の戦い (1576年)」も参照
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