上洛後の活躍とは? わかりやすく解説

上洛後の活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 11:02 UTC 版)

蜂屋頼隆」の記事における「上洛後の活躍」の解説

永禄2年1559年)、信長初め上洛した際に80名の随行者1人として同行。この時、斎藤義龍の命を受け信長暗殺しよう追いかけてくる美濃衆集団がいたが、清洲丹羽という者の機転で彼らの目的判明し、兵金森長近と頼隆にこれを通報信長の命を受けた長近と兵刺客達の宿に行って既に事が露見していることを告げて目論見阻止した永禄11年1568年)、信長の上においては部将1人として一隊指揮柴田勝家森可成坂井政尚とともに先陣命じられ岩成友通の籠もる勝竜寺城攻めて協力して敵の首50余り討ち取った上洛後もこの4人組京機政務携わった同年10月12日には某所禁制掲げ11月5日には伏見荘瑞祐首座知行分の名主百姓年貢諸成物を周悦首座納めるように命じ永禄12年1569年1月24日には公卿飛鳥井雅敦より、本興寺陣取りないよう頼まれる。さらに4人組に、佐久間信盛和田惟政加えて政務見られる永禄11年10月1日富田林院(興正寺)に下された制札確認し永禄12年2月1日には金剛寺三好三人衆味方したことを責めて、罰として兵糧米1,000石を賦課し同月21日には堺接収の上使を務め等々この頃、既に頼隆は信長代表的な部将1人となっていた。 永禄12年8月大河内城の戦い従軍した元亀元年1570年6月信長江北出陣従軍21日浅井長政小谷城攻めた後、虎御前山に登って一夜の陣を構えた信長は、柴田勝家佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀・頼隆、および近江国内から参陣した諸将々・谷云々隅々まで焼き払わせた。 元亀3年1572年4月三好義継松永久秀父子と謀って畠山昭高対立すると、久秀は畠山部将安見新七郎攻めて.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}交野(かたの)に砦を築いたので、信長命令で、柴田勝家森可成坂井政尚・頼隆・斎藤利治稲葉一鉄氏家直昌安藤守就不破光治丸毛長照多賀常則、ほか室町幕府15代将軍・足義昭配下諸将加えて三好松永方の交野城攻囲交野城巻き)したが、敵は風雨紛れて脱出した同年7月、再び江北出陣従軍し信長嫡男信忠初陣小谷城攻め参加して小谷の町を破った元亀4年1573年2月義昭信長対立して蜂起促したので、柴田勝家明智光秀丹羽長秀・頼隆の4将は、近江石山城・今堅田城の攻撃命じられる甲賀・伊賀衆の籠もる近江石山城の大将山岡景友降伏し26日に砦は破却された。29日強襲受けた今堅田城は光秀と長秀・頼隆に挟撃されて、落城した。 同年3月29日信長の京出陣従い義昭脅迫するために、4月2日洛外寺社関連建物除外して家々放火した義昭は一旦これを無視するが、翌日上京の町を焼き払うと堪らず和議申し出た同年7月、その義昭が再び挙兵して二条御所には日野輝資高倉永相伊勢貞興三淵藤英らの諸将を置き、自らは槙島城籠城すると、信長に従って出陣し義昭追放した信長その後7月28日天正への改元行った天正元年1573年8月越前朝倉攻め一乗谷城の戦い)に参加18日夜、織田家諸将朝倉勢の退却見逃し信長馬廻りだけを率いて朝倉勢を追撃したが、頼隆も遅れを取って叱責受けた諸将滝川一益柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉稲葉一鉄)の1人だった。なお、このときに佐久間信盛恐縮もせずに自慢話をしたと言い、これが後年折檻状の罪状1つにされている。 同年9月北伊勢攻め従軍して、信盛・秀吉・長秀とともに西別所城を落城させたが、その後抵抗続けた白山中島将監攻めて降伏退去させた。 天正2年1574年3月東大寺蘭奢待切り取りにおいて、塙直政菅屋長頼佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀・頼隆・荒木村重武井夕庵松井友閑織田信澄特使として派遣され奉行務めた同年7月13日信長信忠諸将動員して伊勢長島出陣するとこれに参加佐久間信盛柴田勝家稲葉一鉄・貞通父子と賀鳥口担当したその後勝家一鉄・貞通と大鳥居城降伏認めず攻め立て8月2日激し風雨の中を脱出しようとした男女1,000人ばかりを斬った。9月29日兵糧攻めに耐えきれなくなった一向一揆勢は降伏すると言って長島城退去したが、信長はこれを許さず囲い追い込んで焼き殺し鎮圧した天正3年1575年8月前年1月より続いていた越前一向一揆掃討戦参加した。 「長島一向一揆」および「越前一向一揆」も参照 天正4年1576年4月14日石山本願寺が再び挙兵したので、畿内軍勢動員される。本願寺勢は天王寺砦を包囲したので、5月5日信長救援のために軽装のまま出陣信長若江軍勢揃えて一戦臨んだが、頼隆は滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄氏家直昌安藤守就と共に第二陣に入った。 「石山合戦」および「天王寺の戦い (1576年)」も参照

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