上洛戦の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 14:29 UTC 版)
将軍の座を追われた足利義稙は諸国を流浪し、明応8年(1500年)に大内義興を頼って山口に入国した。一方の細川政元は半将軍と呼ばれるほどの権力を振るったが、永正4年(1507年)に殺害され、これを収拾した細川澄元が跡を継いでいた(永正の錯乱)。永正4年(1507年)11月、大内義興は諸大名に号令を発して周防を出立し、細川高国の勢力も併呑し、永正5年(1508年)6月に上洛を果たし、7月1日には足利義稙が将軍職に復帰した。これが戦国大名が上洛により政権を覆した前例となり、以降、下記のように各地の戦国大名が上洛を果たすようになった。 しかしながら多くの戦国大名は、室町将軍や朝廷から、守護職や官位を受けており、使者を介しての京都との連絡は保っていた。上杉謙信や織田信長のように、さほど多いとはいえない兵、あるいは僅かな供を連れて、上洛を行った例もある。このような状況下において、天皇や室町将軍が在住する京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍を保護する立場になる事は、大きな権威をもたらす事であった。すくなくとも室町将軍は形式的には全国の支配者であり、その保護者となる事は、政治的影響力を高める事となった。しかしながら戦国大名が上洛を企図しても、実際には領国における抗争に妨げられ、成功した者は少ない。[要出典]
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