上洛後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 00:12 UTC 版)
以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼く、信秀直系で一番の年長者ということもあって、織田家連枝衆の中ではまとめ役的な存在であったという。織田家が上洛を果たした永禄12年(1569年)から元亀元年(1570年)頃まで京都に常駐して、信長の庶兄という立場から室町幕府、公家との折衝役を任され、山科言継、吉田兼見、一条内基らと交友を持った。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち、元亀3年(1572年)の岩村城救援などにも参戦した。天正元年4月7日(1573年5月18日)には、織田家と不和になっていた足利義昭と信長の名代として交渉に臨み、和議を締結させている。 天正2年(1574年)、最後の伊勢長島一向一揆攻めに参加する。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、9月29日、長島願証寺が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた願証寺顕忍や三位法橋は弾丸に斃れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に大木兼能(佐々宗淳の外祖父)と一騎討ちとなり、信広は討ち死にしたという。
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