信長上洛後
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永禄11年(1568年)宗厳39歳の時、足利義昭が織田信長を伴って上洛を果たすと、宗厳の主君・松永久秀は織田軍と協力して大和の平定を進めた。その年の10月、宗厳は高畠(奈良市高畠町)で落馬し重傷を負った。 久秀は主家・三好義継と共に義昭の幕府を構成する一員となって尽力するが、やがて長年敵対していた筒井順慶と義昭が結んだこと等により、幕府を離脱して義昭と敵対した。元亀2年(1571年)8月4日、久秀の指揮の下で宗厳は義昭方の筒井順慶が守る辰市城を攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多門院日記』)と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした。『多聞院日記』によると、この戦いで負傷した者の中に宗厳の息子(「柳生息」)もおり、戦場で銃傷を受けて廃人となったと伝わる長男・厳勝は、この戦で障害を負い生涯柳生庄に逼塞することになったと見る向きも強い。 同年10月、久秀が山城南部を攻めて奈良を留守にすると、宗厳は久秀の子・久通の命を受けて、義昭への調略の一環として東国へ使僧を遣わし、伊賀衆への調略や大阪本願寺と伊勢長島一向一揆との交渉にあたった。この年、後に家督を継承する末子柳生宗矩が誕生した。
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