信長上洛後とは? わかりやすく解説

信長上洛後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)

柳生宗厳」の記事における「信長上洛後」の解説

永禄11年1568年宗厳39歳の時、足利義昭織田信長伴って上洛を果たすと、宗厳主君松永久秀織田軍と協力して大和平定進めた。その年の10月宗厳高畠奈良市高畠町)で落馬し重傷負った。 久秀は主家三好義継と共に義昭幕府構成する一員となって尽力するが、やがて長年敵対していた筒井順慶義昭結んだこと等により、幕府離脱して義昭敵対した元亀2年1571年8月4日、久秀の指揮の下で宗厳義昭方の筒井順慶が守る辰市城攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多門院日記』)と言われるほどの大敗喫し、久秀の一族多く重臣討ち死にした。『多聞院日記』によると、この戦いで負傷した者の中に宗厳息子(「柳生息」)もおり、戦場銃傷受けて廃人となったと伝わる長男・厳勝は、この戦で障害負い生涯柳生庄に逼塞することになったと見る向きも強い。 同年10月、久秀が山城南部攻めて奈良留守にすると、宗厳は久秀の子久通の命を受けて義昭への調略一環として東国使僧遣わし伊賀衆への調略大阪本願寺伊勢長島一向一揆との交渉あたったこの年、後に家督継承する末子柳生宗矩誕生した

※この「信長上洛後」の解説は、「柳生宗厳」の解説の一部です。
「信長上洛後」を含む「柳生宗厳」の記事については、「柳生宗厳」の概要を参照ください。

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