信長包囲網と織田・毛利の激突
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「中国攻め」の記事における「信長包囲網と織田・毛利の激突」の解説
詳細は「信長包囲網#第三次包囲網」を参照 天正4年4月、信長が村重、藤孝、光秀、直政に命じ、一向一揆の拠点である摂津の石山本願寺(大阪府大阪市)攻めを開始して石山合戦(第4次)がはじまるに至って織田氏の強大化に危機感をいだいた毛利氏は、淡路北端の岩屋城(兵庫県淡路市)を占拠し、本願寺に兵糧や弾薬を搬送するなどの救援に乗り出し、信長包囲網の一画に加わった。 『毛利家文書』には、石山本願寺を支援するにあたっての毛利家内の軍議の内容を伝える史料がのこっており、それによれば、織田氏との関係を和戦両様で検討したことがうかがい知れる。ここでは、信長と合戦にならなかった場合、 宇喜多直家が信長に吸引され、毛利方の者まで手なずけられ、信長が強勢となって当方を攻めてきたとき、どうするのか。 鞆にいる足利義昭をどうするのか。 毛利氏に同盟する諸勢力の結束をどうするのか。 が衆議にかけられ、また、信長と合戦になった場合、 合戦の間じゅう、上下の結束が維持できるのか。 旧尼子勢力圏の出雲・伯耆・因幡を制圧しうるかどうか。 宇喜多直家の心をつなぎとめうるかどうか。 だが、検討された。毛利方は、評定をひらいたうえで慎重に審議した結果、義昭の懇請に応じて本願寺支援の決断を下したのであった。 この輝元の決断は島津氏はじめ九州地方の諸大名、伊予の河野氏、越後を本拠とする上杉謙信、甲斐の武田勝頼などにも伝えられた。義昭はそのあいだも政治工作を進め、謙信・勝頼に対して、輝元と協力して信長を討つことを命じている。5月には謙信が本願寺法主顕如(本願寺光佐)との間に加賀一向一揆との和睦を成立させて反信長に転じ、6月には謙信は輝元からの口添えもあり、武田氏・北条氏との和睦を受諾した。なおこの頃、輝元と直家の和議が成立したがこれを仲介したのは鞆にいた義昭であった。 毛利氏は紀伊の雑賀衆と連携し、天正4年7月の第一次木津川口の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝ら小早川水軍に因島・能島・来島の各村上氏を加えて淡路の岩屋に集結し、宇喜多氏の加勢も得た毛利水軍の兵糧船600艘と警固船300艘は、和泉貝塚(大阪府貝塚市)に回航して雑賀衆の新手と合流して北上した。また、木津川の河口で焙烙玉を用いた攻撃などによって織田水軍の安宅船10艘、警固船300艘を破り、数百人を討ち取るという大勝利を収め、織田氏の海上封鎖を破って石山本願寺に兵糧米をとどけることに成功した。この時、摂津・和泉の門徒も毛利方に加勢している。 かくして義昭の働きかけは結果としては大成功を収め、本願寺・毛利・上杉を主とする信長包囲網が成立した。しかし、これは、三者がそれぞれ信長の勢力拡大に直面して危機感をおぼえ、自ら生き残る道を求めたためであって、かならずしも義昭の期待する幕府再興をめざしたわけではなかった。たとえば、越中を掌握しつつあった謙信が天正4年に信長包囲網に加わったのは、前年に信長軍が越前・加賀を侵攻したからであり、輝元にしても、信長が山陰で尼子氏再興の動きを援助し、備前・播磨の浦上・別所・小寺の各氏を取り込んだことに危機感を募らせたからだったのである。 ただ、本来動機の異なるかれらが大同団結するためには大義名分が必要だったことも確かであり、輝元は将軍の命令に服して義昭公入洛のために馳走するという起請文を発して謙信・勝頼の出馬を要請したのである。謙信はいちはやくそれに呼応して上洛の軍を発する旨を返答したが、天正3年の長篠の戦いで壊滅的な敗北を喫した勝頼にはすでに大軍を動かす余力はなかった。ただし、小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏とは講和して背後を固めた。8月、北条氏もまた、真意は別として義昭の呼びかけに応える構えをみせた。
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