義昭
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義昭(ぎしょう、応永11年(1404年) - 嘉吉元年旧3月13日(1441年4月4日))は、室町時代の僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の子息で第6代将軍足利義教の異母弟。大覚寺門跡となり、官職は大僧正に昇りたびたび東寺長者を務めた。
注釈
- ^ ただし、大田壮一郎は後南朝など旧南朝勢力が大覚寺との関係を持っていた裏付けは存在しないこと、反対に当時の大覚寺が室町幕府と北朝の公武祈祷を担っており、将軍の子である義昭の入寺はその親幕府の立場からなされたとして、仮に義昭と旧南朝勢力が結びついていたとしてもそれは義昭が将軍・義教の対抗馬になりえる存在であったからであるとする[1]。
- ^ 新名一仁によれば、この時密告したのは義昭から義教追討の檄文を送られた島津氏重臣・樺山孝久(樺山氏は島津氏の庶流にあたる。)であったという[2]。
- ^ ただし、新名一仁によれば、この時、忠国は国一揆の鎮圧に失敗して家中の支持を失い、家督を弟の島津用久に譲らされていたが幕府はこれを認めていなかった。ところが、用久は義昭討伐に消極的であったために、本来は「隠居」である忠国が義昭討伐の指揮を取った。その結果として嘉吉元年12月に用久の家督継承は不法と認定され、忠国に対して用久を謀反人として討伐する御教書が幕府から下されることになったとされる。なお、討伐の中心であった忠尚は用久派の、忠臣・孝久は忠国派の中心人物であった[2]。
出典
- ^ 大田壮一郎「大覚寺門跡と室町幕府」『日本史研究』443号、1999年。/所収:大田壮一郎 『室町幕府の政治と宗教』塙書房、2014年。ISBN 978-4-8273-1264-5。
- ^ a b 新名一仁「嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-」『史学研究』235号、2001年。/改題所収:新名一仁「嘉吉・文安の島津氏内訌」 『室町期島津氏領国の政治構造』戎光祥出版、2015年。ISBN 978-4-86403-137-0。
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