あしかが‐よしみつ【足利義満】
足利義満 (あしかがよしみつ)
足利義満
足利義満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 06:58 UTC 版)
足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍[5]。将軍職を辞した後、清和源氏で初の太政大臣。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室・紀良子。祖父に足利尊氏。正式な姓名は源 義満(みなもと の よしみつ)。室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮の長男で足利満詮の同母兄にあたる。
- ^ 史書はこれを気宇壮大を表す事績として伝えるが、作家の海音寺潮五郎は「単なるわがまま」としている。
- ^ これを吉例として足利義教(義満の子、第6代将軍)の元服では管領畠山持国一門、その子・足利義政(義満の孫、第8代将軍)の元服では管領細川勝元一門が四役全てを占めて、幼少もしくは還俗直後の新将軍を管領一門が支えることをアピールする場としている。
- ^ なお、康暦の強訴の幕府の対応について、結果的には室町幕府の対権門寺院政策の転換点になったものの、本来は義満が参加する朝儀の無事に行われることのみを目的としたもので、幕府は積極的に強訴を解決しようとした訳ではなく興福寺をなだめて問題を先送りにする方針であったとする指摘もある[17]。
- ^ この時最終案に残った「洪」のつく案は「洪徳」であったが、これまで永徳、至徳、明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号を用いた崇徳天皇や、4回連続「元」のつく元号を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉とされた。ちなみにこの時案として後に用いられる寛永や宝暦が提案されている。
- ^ この際に反対論を唱えたのは、一条経嗣らであったという[20]。
- ^ 服部敏良は流行の風邪にかかり、それが悪化し急性肺炎のような症状で死去したであろうと推測している[30]。
- ^ 現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は天皇の代数の数え方は必ずしも一致していなかった。現代では天皇とみなされる弘文天皇と仲恭天皇の即位は一般には認められておらず(明治時代に同時に諡号を贈られた淳仁天皇は、即位に関しては不備はなく「47代 廃帝」として代数には含まれていた)、一方で神功皇后は即位したとされていた。当時は北朝が正統とされていたため、この数え方によると100代目は後円融天皇にあたる。
足利義満
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足利義満
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1990年代前期頃から、足利義満は皇位簒奪を企図していたとする説が注目されるようになった。武家としてだけでなく、公家としても官位を極めた義満は、治天の君としての行動を徐々に始め、自身の子である足利義嗣を皇位に就けることを計画していたが、計画成就の寸前に死去したため皇位簒奪がならなかったとしている。義満も清和天皇(又は陽成天皇)に始まる源氏ではあるが、代数が当時の天皇から十数代も離れていたため、皇族としての資格はないものと見做されていた。日本の歴史上、5代以上天皇位に就いていない家系に属する皇裔が即位した例はない。しかし、上記説の論者は、当時の状況(後光厳系統断絶の危機など)を詳細に観察してみると、義満による皇位簒奪はかなりの可能性で成功したはずであり、もし成功していればその後の天皇(皇位)のあり方が劇的に変化していただろうと考えている。実際、義満の死後、太上天皇号が朝廷から贈られようとしている(義満の後継者・足利義持がこれを辞退した)。
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足利義満
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南北朝の動乱により、皇室と公家勢力の権力及その権威が低下すると共に、室町幕府の成立以来、足利将軍家の権威は皇室に迫り、実質的に日本の君主としての役割を担った。とりわけ三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。天皇・治天の代わりに、中国の明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受け独自の外交を行っているが、これを国内的な君主号としての天皇の権威に対抗するためであり、簒奪の為の準備の一つであるとの説[要出典]がある(ただし、貿易の利便性を高める為、冊封を受けたとの説もある)。 晩年には、実子義嗣を親王に準ずる形で元服させた。義満が皇位簒奪を企てているとする論者は、義嗣を皇位に就かせ、自らは上皇(治天)に就く意図があったものとする。しかしその直後に義満は後継者不指名のまま急死し、四代将軍となった足利義持や幕府重臣により勘合貿易など義満の諸政策も停止された。義満の皇位簒奪説は、一方で皇統の正当性は血統により発生するという反論もあり、疑問視する声も根強い。しかし義満の死後、朝廷が「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った事(義持は斯波義将らの反対もあり辞退)、相国寺が過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記しているのは事実である。 しかし榎原雅治教授(東京大学資料編纂所)によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定や経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる。 なお足利将軍家は、清和天皇の子孫が臣籍降下した清和源氏の一流(河内源氏)であり、皇胤であるため皇室とは遠い血縁関係にあたる。
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