足利義満とは?

あしかがよしみつ 【足利義満】 ○

1358~1408室町幕府三代将軍在職1368~1394)。義詮(よしあきらの子。号は鹿苑院殿。1378年室町殿造営92年南北朝合一成しとげ、有力守護大名抑え幕府権力確立し、94年将軍職を義持に譲る。97年北山金閣を建て、北山殿と呼ばれた。1401年明に入貢貿易につとめた。 → 勘合貿易

足利義満 (あしかがよしみつ)

室町幕府代将軍で、金閣きんかく]を建てたことで有名です。1391年に、それまで2つにわかれていた朝廷ちょうてい]をまとめました。大内義弘おおうちよしひろ]らを討って、国内支配力を強めたほか、中国の明[みん]と国交を開いています。


足利義満

作者海音寺潮五郎

収載図書昭和エンタテインメント50篇 下
出版社文芸春秋
刊行年月1989.6
シリーズ名文春文庫

収載図書ちくま日本文学全集 048 海音寺潮五郎
出版社筑摩書房
刊行年月1993.1

収載図書悪人列伝 中世新装
出版社文藝春秋
刊行年月2006.12
シリーズ名文春文庫


足利義満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/20 05:59 UTC 版)

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室紀良子




註釈

  1. ^ 気宇壮大を史書は伝えるが、作家の海音寺潮五郎は単なるわがままであるとしている。
  2. ^ 足利義満 征夷大将軍の辞令(宣旨) 「後愚昧記」:左馬頭源朝臣義満:左少辨藤原朝臣仲光傳宣:權中納言藤原朝臣實綱宣:奉 勅件人宜爲征夷大將軍者:應安二年正月一日:修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史備前權介小槻宿禰兼治奉::(訓読文)左馬頭源朝臣義満(足利義満、正五位下) 左少弁藤原朝臣仲光(広橋仲光、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣実綱(正親町実綱、従三位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)、応安2年(1369年)正月1日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史備前権介小槻宿禰兼治(壬生兼治)奉(うけたまは)る
  3. ^ これを吉例として足利義教(義満の子、第6代将軍)の元服では管領畠山持国一門、その子・足利義政(義満の孫、第8代将軍)の元服では管領細川勝元一門が四役全てを占めて、幼少もしくは還俗直後の新将軍を管領一門が支えることをアピールする場としている。
  4. ^ この時最終案に残った「洪」のつく案は「洪徳」であったが、これまで永徳至徳明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号を用いた崇徳天皇や、4回連続「元」のつく元号を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉とされた。ちなみにこの時案として後に用いられる寛永宝暦が提案されている。
  5. ^ この際に反対論を唱えたのは、一条経嗣らであったという(久水、2011年、P346-347)。
  6. ^ 服部敏良は流行の風邪にかかり、それが悪化し急性肺炎のような症状で死去したであろうと推測している(『室町安土桃山時代医学史の研究』吉川弘文館、1988年)。
  7. ^ 現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は天皇の代数の数え方は必ずしも一致していなかった。現代では天皇とみなされる弘文天皇淳仁天皇仲恭天皇の即位は一般には認められておらず、一方で神功皇后は即位したとされていた。当時は北朝が正統とされていたため、この数え方によると100代目は後円融天皇にあたる。

出典

  1. ^ Wikisource reference 張廷玉. 明史/卷322. - ウィキソース. 「明年十一月來賀冊立皇太子。時對馬、壹岐諸島賊掠濱海居民,因諭其王捕之。王發兵盡殲其眾,縶其魁二十人,以三年十一月獻於朝,且修貢。帝益嘉之,遣鴻臚寺少卿潘賜偕中官王進賜其王九章冕服及錢鈔、錦綺加等,而還其所獻之人,令其國自治之。使者至寧波,盡置其人於甑,烝殺之。明年正月又遣侍郎兪士吉齎璽書褒嘉,賜賚優渥。封其國之山為壽安鎮國之山,御製碑文,立其上。六月,使來謝,賜冕服。五年、六年頻入貢,且獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《内訓》二書,即命各給百本。十一月再貢。十二月,其國世子源義持遣使來告父喪,命中官周全往祭,賜謚恭獻,且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時海上復以倭警告,再遣官諭義持剿捕。」
  2. ^ Wikisource reference 張廷玉. 欽定續文獻通考. - ウィキソース. 「成祖永樂三年十一月日本王源道義遣使獻賊俘于朝 先是對馬壹岐諸島賊掠濱海居民因倭使諭其王捕之王發兵盡殲其衆縶其魁二十人以獻六年十二月其國世子源義特遣使來告父喪賜諡恭獻封義特為國王時海上復以倭警告九年寇磐石十五年寇松門金郷平陽十七年倭船入王家山島都督劉榮率精兵疾馳入望海堝賊數千人分乗二十舟直抵馬雄島進圍望海堝榮發伏出戰竒兵㫁其歸路賊奔櫻桃園榮合兵攻之斬獲千二百九十餘榮封廣寧伯自是倭不敢窺遼東二十年倭寇象山至英宗正統四年五月倭船四十艘連破台州桃渚寧波大嵩二千戸所又陷昌國衞大肆殺掠八年五月寇海寧景帝景泰四年貢使至臨清掠居民貨天順初其王源義政移書朝鮮王令轉請遣使謝罪廷議使臣不得仍前肆擾成化四年十一月倭使傷人于市曲赦之孝宗弘治九年三月王源義髙遣使來京還至濟寧其下仍持刀殺人詔嚴防禁武宗正徳五年春時劉瑾竊柄納其王源義澄所使宋素卿黄金千兩賜飛魚服前所未有也素卿鄞縣朱氏子名縞幼習歌唱倭使見悦之而縞叔澄負其直因以縞償至是充正使至蘇州澄與相見後事覺法當死瑾庇之謂已自首並獲免 臣等謹按王圻謂永樂初西洋之役雖威震海表而華人習知遠夷饒金寳夷人亦知我海道奸闌出入彼此相糾故海中寇盜復起若非廣寧之捷厥禍未已然以明史考之則倭之搆禍實與明代相終始矣」
  3. ^ Wikisource reference 王世貞. 皇明異典述. - ウィキソース. 「夷狄賜諡 夷王得諡者:日本王源道義諡恭獻,高麗王王顓諡恭湣、李旦諡康獻、李芳遠諡恭定、李向諡恭順、李娎諡康靖,浡泥國王麻邪惹加那乃諡恭順,蘇祿國東王巴都葛叭答剌諡恭定,古麻剌朗國王幹剌義亦敦奔諡康靖。」
  4. ^ Wikisource reference 王世貞. 弇山堂別集 (四庫全書本)/卷009. - ウィキソース. 「夷狄賜謚 夷王得諡者日本王源道義諡恭獻髙麗王王顓諡恭愍李旦諡康獻李芳遠諡恭定李珦諡恭順李娎諡康靖浡泥國王麻邪惹加那乃諡恭順蘇祿國東王巴都葛哈叭答剌諡恭定格黙勒朗國王衞喇義伊徳伯諡康靖」
  5. ^ Wikisource reference 鮑應鰲. 明臣諡考 (四庫全書本)/卷下. - ウィキソース. 「外國王諡附 恭定 巴都葛叭哈剌 蘇祿國東王 敬事供上永樂年諡 純行不爽 李芳遠 朝鮮國王 同永樂年諡 恭靖 李曔 朝鮮國權署國 敬事供上事永樂年諡 寛樂令終 恭順 麻那惹加那 浡泥國王永樂年諡 李珦 朝鮮國王 敬順事上景泰年諡 慈仁和民 恭憲 李峘 朝鮮國王 敬順事上隆慶年諡 行善可紀 恭獻 源道義 日本國王永樂年諡 恭僖 李懌 朝鮮國王 敬順事上嘉靖年諡 小心恭慎 莊憲 李峘 朝鮮國王 嚴敬臨民景泰年諡 行善可紀 襄悼 李晄 朝鮮國王 因事有功成化年諡 未中早夭 惠莊 李瑈 朝鮮國王 柔質慈仁成化年諡 嚴敬臨民 康靖 哇來頓本 朝鮮國王 安樂撫民永樂年諡 寛樂令終 李娎 朝鮮國王 温良好樂 治年諡 寛樂令終 康獻 李旦 朝鮮國王永樂年諡 榮靖 李峼 朝鮮國王 寵禄光大嘉靖年諡 寛樂令終 懐簡 李璋 朝鮮世子贈 慈仁短折王成化年諡 平易不訾」
  6. ^ Wikisource reference 黄遵憲. 日本國志/卷五. - ウィキソース. 「朕承洪業,享有福慶,極所覆載,咸造在近,周爰諮詢,深用嘉歎。邇者對馬、壹岐諸小島,有盜潛伏,時出寇掠。爾源道義,能服朕命,咸殄滅之,屹為保障。誓心朝廷,海東之國,未有賢於日本者也。朕嘗稽古,唐虞之世,五長迪功渠搜即敘;成周之隆,庸蜀羌矛微盧彭濮;率遏亂略,光華簡冊,傳誦至今。以爾道義方之,是大有光於前哲者也。日本王之有源道義,又自古以來未之有也。朕維繼唐虞之治,舉封山之典,特命日本之鎮山號壽安鎮國之山,賜以銘詩,勒之貞石,榮示于千萬世。」義滿又遣使謝,賜冕服。連年往貢,並獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《内訓》二書,詔給之。十五年,道義死,十二月,世子源義持遣使告喪。成祖命中官周全往祭,賜諡恭獻,且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時山東有倭寇,又諭義持捕盜。義持遣使謝恩,尋獻所獲盜。十八年,明復遣内官王進齎敕褒賚,至兵庫而還。先是道義死,義持以臣貢為非,至是阻明使不得達。」
  7. ^ Wikisource reference 郭良翰. 明諡紀彚編 (四庫全書本)/卷22. - ウィキソース. 「欽定四庫全書 明謚紀彙編卷二十二 明 郭良翰 撰 臣謚 外夷 天下大一統也故外夷得附之臣 恭獻 日本國王源道義 永樂 恭愍 髙麗國王王顓 洪武 恭順 浡泥國王麻那惹加那乃 永樂 朝鮮國王李珦 景泰 恭定 蘇禄國東王巴都葛叭荅剌 永樂 朝鮮國王李芳遠 永樂 恭靖 朝鮮國權署國事李曔 永樂 恭僖 朝鮮國王李懌 嘉靖 恭憲 朝鮮國王李峘 隆慶 康獻 朝鮮國王李旦 永樂 康靖 古麻剌國王幹剌義亦敦 永樂 朝鮮國王李娎 弘治 莊憲 朝鮮國王李祹 景泰 惠莊 朝鮮國王李瑈 成化 襄悼 朝鮮國王李晄 成化 懷簡 朝鮮國王世子贈王李暲 成化 榮靖 朝鮮國王李峼 嘉靖 明謚紀彙編卷二十二」
  8. ^ Wikisource reference 頼山陽. 重訂日本外史/卷之八. - ウィキソース. 「五月。義滿薨。義滿初敍從五位下。任左馬頭。累遷從一位左大臣。兼右近衛大將右馬寮御監。終至太政大臣。准三宮。初久我氏爲源氏長者。充淳和奨學兩院別當。至義滿時。乃屬之於足利氏。終足利氏之世。其官爵敍任。例概如此。而至太政大臣者。止於義滿。義滿之薨。詔贈太上皇號。義持惶懼。辭不受。明主諡義滿。曰恭獻王。義持受之。明年六月。滿兼卒。初氏滿至從三位左兵衛督。而滿兼以從四位下左兵衛佐終。遂以爲例。滿兼二子。持氏。持仲。持氏爲嗣。先是。宇都宮氏廣爲亂。斯波持詮爲陸奧探題。擊斬之。獻首鎌倉。滿兼賜持詮以氏廣邑。以賞之。伊達政宗作亂。滿兼遣執事上杉氏憲。擊平之。十八年。飛驒國司藤原尹綱兵起。義持遣京極高數。擊平之。十九年。帝讓位於皇太子。是爲稱光帝。諸南朝遺臣。請立後龜山後如約。足利氏議。立南朝皇胤者。非我家之志也。終不聽其請。」
  9. ^ 頼山陽『筑後河を下り、菊池正観公の戦処を過ぎ感じて作有り』「文政之元十一月 吾下筑水僦舟筏 水流如箭萬雷吼 過之使人竪毛髪 居民何記正平際 行客長思己亥歳 當時國賊擅鴟張 七道望風助豺狼 勤王諸將前後没 西陲僅存臣武光 遺詔哀痛猶在耳 擁護龍種同生死 大擧來犯彼何人 誓剪滅之報天子 河亂軍聲代銜枚 刀戟相摩八千師 馬傷冑破気益奮 斬敵取冑奪馬騎 被箭如蝟目眥裂 六萬賊軍終挫折 歸來河水笑洗刀 血迸奔湍噴紅雪 四世全節誰儔侶 九國逡巡西征府 棣萼未肯向北風 殉國劍傳自乃父 嘗卻明使壯本朝 豈與恭獻同日語 丈夫要貴知順逆 少貳大友何狗鼠 河流滔滔去不還 遥望肥嶺嚮南雲 千載姦黨骨亦朽 獨有苦節傳芳芬 聊弔鬼雄歌長句 猶覺河聲激餘怒」[1]
  10. ^ 頼山陽日本楽府』「史官遺倒日本王、相公怒裂明册書、欲王則王吾自了、朱家小児敢爵余、吾國有王誰覬覦、叱咤再蹀八道血、鴨緑之流鞭可絶、地上阿鈞不相見、地下空唾恭献面。」[2]
  11. ^ 新井白石読史余論』「同月、義嗣内裏にて元服、其儀親王に准ず。参議従三位たり。中将如元(于時十五歳)。五月、前征夷大将軍太政大臣従一位准三后義満入道道義薨(五十一)。太上天皇の尊号を贈らる(義持固辞して不受ともいふ)。十二月、大明成祖より義持に慰詔を賜ひ道義を吊ひ祭文を作り恭献王と諡す。」[3]
  12. ^ 『南方紀伝』応永十八年(辛卯)「興福寺五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基が落雷で焼失した。明国の成祖・永楽帝が書を義持に贈り、義満の死を弔慰し祭文を作り恭献王と諡した。」
  13. ^ 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.11
  14. ^ 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.14
  15. ^ 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.16-18
  16. ^ 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.19
  17. ^ 森茂暁『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年)P80-100。
  18. ^ 小川剛生『二条良基研究』(笠間書院、2005年)P87-90
  19. ^ 大田壮一郎『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年)P285-291
  20. ^ なお、康暦の強訴の幕府の対応について、結果的には室町幕府の対権門寺院政策の転換点になったものの、本来は義満が参加する朝儀の無事に行われることのみを目的としたもので、幕府は積極的に強訴を解決しようとした訳ではなく興福寺をなだめて問題を先送りにする方針であったとする指摘もある(大藪海「室町幕府ー権門寺院関係の転換点―康暦の強訴と朝廷・幕府―」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9)。
  21. ^ 桜井、66-67p
  22. ^ 桜井英治、28p
  23. ^ a b 今谷明『室町の王権』中央公論社、1990年
  24. ^ 臼井信義「正長の改元」(『日本歴史』52号(1952年))など。
  25. ^ 久水俊和「室町時代の改元における公武関係」(初出:『年報中世史研究』34号(2009年)/改題所収「改元をめぐる公家と武家」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2
  26. ^ 大田壮一郎「足利義満の宗教空間」(初出:『ZEAMI 中世の芸術と文化』4号(森話社、2007年)/所収:大田『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1264-5
  27. ^ 金閣寺・敷地内から装飾品出土、七重塔「北山大塔」部材か 毎日新聞(2016年7月8日)2017年2月11日閲覧
  28. ^ 臼井信義『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.190-191
  29. ^ 歴史読本スペシャル 特別増刊「臨終の日本史その死の瞬間」」新人物往来社 昭和62年(1987年) p.207
  30. ^ 佐藤、409p
  31. ^ 桜井、111-112p
  32. ^ 早島2010、88頁。
  33. ^ 『後愚昧記』。
  34. ^ 『兼宣公記』。
  35. ^ 早島2010、140-141頁。『教言卿記』。
  36. ^ 佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論社、2005年
  37. ^ 田中建夫『前近代の国際交流と外交文書』吉川弘文館、1996年
  38. ^ 村井章介『中世の国家と在地社会』校倉書房、2005年
  39. ^ 石原比位呂「足利義満の対朝廷政策」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6
  40. ^ 読売新聞 東京版 2017年2月1日 p21
  41. ^ 早島2010、116頁。





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