束帯とは? わかりやすく解説

そく‐たい【束帯】

読み方:そくたい

律令制で定められた男子の朝服(ちょうふく)。日常の参朝の服だが、平安時代以降、天皇以下の文官武官が朝廷の儀式・公事に着用した。文官は縫腋(ほうえき)の袍(ほう)、武官は闕腋(けってき)の袍を原則とする。構成は冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口(おおくち)・石帯(せきたい)・帖紙(たとう)・笏(しゃく)・襪(しとうず)・靴などで、武官と帯剣勅許の文官は太刀を平緒(ひらお)で佩用(はいよう)する。昼(ひ)の装束(そうぞく)。

束帯の画像

束帯

読み方:ソクタイ(sokutai)

古代における男子の朝服。


そくたい 【束帯】

平安時代以降の朝服(皇族以下文武の官が朝廷に出仕のとき着用の正服。朝衣)の名。

束帯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/10/02 00:38 UTC 版)

良質な記事
黄櫨染御袍を着用した明仁天皇
黄櫨染御袍を着用する明仁天皇(当時、1990年)

束帯(そくたい、旧字体: 束帶)は、平安時代以降の宮廷における男子の正装(平安装束)である。天皇・皇族・公家が朝廷の儀式・政務などで着用し、武家でも、将軍をはじめとする五位以上の者が、大儀に際して着用した[1]。

律令制における朝服が平安時代に和様化して成立した装束であり、晴の装束、または「昼(ひ)の装束」とも呼ばれ、布袴などの略装や、衣冠などの宿直装束と区別された[2]。束帯は単一の衣服ではなく、袍をはじめとする複数の衣服・服飾品からなる皆具の総称である[3]。

定義

束帯は単一の衣服を指す名称ではなく、複数の衣服・服飾品を組み合わせた男子の正装形式である。袍を最上衣とし、その下に半臂・下襲・衵・単などを重ね、袴を着用するほか、冠・石帯・笏・履物などを備える。このように、被り物・下着・上着・袴・帯・装身具・持ち物・履物を含む皆具の総称を束帯という[3]。

束帯の具体的な組み合わせは一様ではなく、着用者の身分・官職・年齢・季節、文官・武官の別、儀式の性格などによって異なった。袍の色や文様、下着類の材質、冠の形式のほか、太刀・弓箭などを備えるかどうかにも違いがあった[4]。

歴史

唐制の受容と朝服

唐の常服は、北朝以来の胡服系の服装を受け継いだ。宋の沈括は『夢渓筆談』に「中国衣冠、自北斉以来、乃全用胡服」と記し[5]、窄袖の短衣、長靿靴、蹀躞帯などを胡服の特徴として挙げている。ただし、唐の服制全体が胡服化したわけではなく、祭服の冕服は玄衣・纁裳からなる中国古来の礼服を継承し、朝服・公服にも伝統的な礼服の要素が保たれていた。一方、常服は胡服系の袍服を基礎としていた[6][7][8]。

被り物については、北周に成立した四脚の幞頭が、隋・唐代には官人の被り物として広く用いられた。日本では朝服の「頭巾」として受容され、のちに形を固定した冠へと発展した[9]。

長屋王家木簡に描かれた朝服姿の官人(奈良時代)
長屋王家木簡に描かれた朝服姿の官人(奈良時代)

奈良時代の律令制では、養老律令の衣服令により、官人の公服として礼服・朝服・制服が定められた[10]。このうち朝服は、皇族や官人が朝廷の公事に際して着用する通常の公服であった[3]。

日本の服飾制度は唐制を一様に移植したものではなかった。親王以下の礼服は、唐の服飾制度と比較すると日本独自の性格が強い一方、養老令に定められた男子の朝服は、服装形式ではむしろ唐の常服に準拠したとされる[11]。また、位階に応じて上衣の色を定める制度は、唐令の朝参服の規定を受容して成立した[12]。

養老衣服令では、文官の朝服の上衣を「衣」、武官の朝服の上衣を「位襖」とした。『令集解』は位襖について、襴を付けず、腋を開けて仕立てる衣と解している[13][14]。一方、文官朝服の「衣」については、『令集解』に腋や襴の構造を直接説明する注はないものの[注釈 1]、裾に襴を付けた有襴衣の系統に属し、腋を縫った縫腋袍であったと考えられている[15][16]。このように、奈良時代の朝服では、文官と武官で異なる形式の上衣が用いられていた。この朝服の制度と形態は、平安時代に入ると次第に変化していった。

束帯の成立

袍を着て坐る老年男性の神像
松尾大社の木造男神坐像(老年像)。平安時代前期(9世紀)。

平安時代前期には武官にも縫腋袍の着用が認められるようになり、文武と袍の形式との単純な対応関係は次第に崩れていった。弘仁5年(814年)には武官五位以上に縫腋袍と闕腋袍の双方の着用が認められ、さらに『延喜式』では、公卿以上の武官は縫腋袍を着用し、四位・五位の武官は儀仗時には闕腋袍、それ以外は縫腋袍を着用し、六位以下の武官は闕腋袍を着用するとされた。このように、袍の形式は文武の別だけでなく、位階や儀仗の有無によって使い分けられるようになり、この区分は後世の束帯にも受け継がれた[17]。

袍の形式だけでなく、その色についても、奈良時代の衣服令の規定がそのまま維持されたのではなく、平安時代前期に相次いで改められた。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本三代実録』『日本紀略』などにみえる位色の改定記事から、その変化の経過をたどることができる[18]。

朝服の形態についても、平安時代前期には長大化が進んだ。天長5年(828年)や斉衡3年(856年)には、袍の袖口の幅や衣丈などを制限する禁制が出されており、こうした規定からも、9世紀に衣服の寛闊化が進行していたことがうかがえる[19]。こうした寛闊化の要因については、大陸の乾燥した寒冷な気候に適した身体に密着する朝服が、日本の蒸し暑い気候に適応したためと説明されてきた[20]。

平安時代前期の男子装束を直接示す視覚資料や遺品は乏しく、その形態を復元するには、法令・記録に加え、絵画・彫刻などの視覚資料を相互に比較して検討する必要がある[21][22]。こうした初期束帯の姿を推測する手掛かりとなる資料はいくつか知られている。

松尾大社に伝来する男神像二体(老年像・壮年像)は9世紀の作とされ、その着衣は、律令制の朝服から束帯へ移行する過渡期の様相を示すと考えられている。このため、初期束帯の形態を類推するための資料の一つとされる[23]。

9世紀の松尾大社男神像より時代は下るものの、比較的早いまとまった絵画資料として、天喜元年(1053年)に完成した平等院鳳凰堂の扉絵や、延久4年(1072年)に制作された法隆寺絵殿旧障子絵の「聖徳太子絵伝」がある[21]。

『将軍塚絵巻』に描かれた束帯姿の人物
『将軍塚絵巻』に描かれた束帯姿(13世紀)。

さらに制作年代は下るが、高山寺所蔵の『将軍塚絵巻』は13世紀の作品で、平安時代に制作された絵巻物の模本とされる。原本の制作年代は明らかでないものの、描かれた装束や武具には古様が認められ、束帯姿も含まれることから、初期束帯の姿を考える手掛かりとされている[23]。

また、藤原鎌足を描いた「大織冠像」の現存作は鎌倉時代以降のものであるが、鎌足画像の制作自体は10世紀に遡る[24]。現存する大織冠像のうち椅子に坐す形式の像(倚像)には、袍を丈に余るほど長く表現したものがあり、その系統の図像では下襲が描かれない例も多い。こうした着衣表現には、より古い時代の服飾が反映されている可能性が指摘されている[25]。

こうした神像・絵画資料や法令・記録をもとに、平安時代前期の男子装束の形態が推定されている[26]。当時の袍は、後世の強装束ほど身幅や袖幅が大きくなく、身体に比較的沿った形であったと考えられている。また、袍は身丈を身体より長く仕立て、裾の余りを腰でたくし上げて着用したと推定されている。半臂・冠・平緒・履物などについても、後世の束帯とは形態や用法が異なる部分があったと考えられている[27]。

こうした朝服の制度的・形態的な変化を経て、男子の朝服は和様化し、9世紀末頃には束帯が成立していたとされる[3][20]。位階に応じて袍の色を定める点では、朝服以来の身分表示機能を継承していた[28]。

束帯の定着と強装束

『伝源頼朝像』に描かれた強装束の束帯
『伝源頼朝像』(神護寺三像)にみる強装束の束帯(13世紀)

10世紀以後、束帯は平安貴族の基本的な公服となり、朝廷の儀式・行事・政務に出席する際には、原則として位袍の束帯が着用された[2]。古くは朝賀などの重儀に用いられた礼服は、平安時代以降、次第に用途が限定され、即位式などに用いられる特殊な装束となった[29]。これに対し、束帯は宮中の儀式・行事や政務に用いる公家男子の正装として定着した[2]。

一方、貴族は場面や勤務の性質に応じて、束帯・布袴・衣冠・直衣・布衣などを着分けた。束帯は公式の正装、布袴・衣冠は束帯を着用しない場合の公服、直衣は私服、布衣は普段着として位置づけられる[30]。

平安時代末期には、公家装束に硬化の傾向が現れた。こうした傾向は12世紀初頭頃からみられ、12世紀後半には強装束の流行が広がったとされる[31]。強装束は、厚織や、糊を用いる板引などの生地を多用した、直線的で硬い外観をもつ装束である。これに対し、それ以前の薄手の生地を重ねた曲線的で柔らかな様式は、 萎装束 (なえしょうぞく)(柔装束とも)と呼ばれる[32]。強装束が成立・流行した要因については、武士の台頭との関連を説くものなど諸説があるが、定説をみない[32]。

強装束の影響を最も強く受けたのは束帯であった。束帯は基本的な構成を維持しながらも、中世を通じて個々の構成要素や着装法には変化が重ねられた。12世紀には、冬の縫腋袍の束帯で、外から見えない半臂が省略されるようになった[33]。また、着装上の便宜から、下襲・石帯・太刀の平緒などにも改変が加えられた。下襲では、長大化した裾を本体から切り離して別に仕立てる「別裾」が用いられるようになり、諸臣は裾の長短にかかわらず別裾の下襲を用いるようになった。一方、天皇・東宮では、裾と本体を切り離さない従来の形式が維持された[34]。

石帯も、従来は腰に回して鉸具などの金具を用いて留める着装法であったが、その煩雑さを省くため、本帯と上手に分け、金具を省いて紐で結ぶ形式へと変化した。ただし、着装した際には外見上、従来の一本の石帯と同じ形に見えるよう工夫されていた[34]。

太刀の平緒にも、強装束の成立に伴って着装を簡便にするための変化が生じた。平緒は太刀を佩くための長い平打の組緒で、前で結び、余った部分を垂らして装飾としたが、これを形よく結ぶ手間を省くため、垂れる部分を別にした「切平緒」が一般化した[34][35]。これに対して、従来の一本続きのものは「続平緒」と呼ばれ、旧来の形式を守る公卿の間に残された[34]。

絵巻物などの絵画に強装束の様式が明確に反映されるようになるのは、鎌倉時代に入ってからとされる[32]。

中世・近世初期の装束

麹塵袍を着用する後醍醐天皇
麹塵袍を着用する後醍醐天皇。『天子摂関御影』(14世紀)より

平安時代後期以降、朝廷儀礼の先例や作法を伝える有職故実が発達し、装束についても儀式書・故実書や古記録が蓄積された。院政期には装束に関する故実が独立して装束抄が成立し、やがて装束の着装を家業とする衣紋道の家流も形成された。鎌倉時代には大炊御門流、南北朝時代以後には山科流・高倉流が知られるようになった[36]。

中世を通じて束帯の基本的な形式が維持される一方、着装には簡略化も進んだ。室町時代以降には、その例として「大帷」が用いられるようになった。大帷は赤地の帷で、袖口や襟に別の生地を取り付け、位袍の下に一領だけ着用しても、単と下襲を重ねているように見えるよう工夫した下衣であり、「袖単」とも呼ばれた[37]。『康富記』嘉吉3年(1443年)4月12日条には、すでに祭の装束として「大帷」「袖単」がみえ、こうした着装の簡略化が応仁の乱以前から行われていたことが確認できる[37]。

桃山時代から江戸時代初期にかけては、天皇の行幸や入内などの大規模な宮廷儀礼が再び行われるようになり、束帯をはじめとする装束も調進された[38]。桃山時代の装束については、豊臣秀吉所用と伝わる品々の詳細な記録と実物も残されている。天保3年(1832年)の『豊公遺宝図略』には、秀吉所用とされた位袍・単・表袴・大口袴・直衣などが、文様や各部の寸法を伴って図示されている。また、これらのうち単や表袴などについては、同書の図と対応すると考えられる実物が妙法院に伝来している[39]。このほか、紀州東照宮には徳川家康所用と伝えられる束帯一式が伝来している(詳細は「現存資料」を参照)[40]。

この時期の有職故実や装束は、後世「寛永有職」または「近世有職」と呼ばれ、古式から離れたものとして評価されることもあった[38]。しかし、近年は、桃山・寛永期の装束について、当時の記録・絵図・伝世品に基づいてその実態を具体的に検討する研究が進んでおり、こうした従来の評価も再検討されている。秀吉所用と伝わる装束の記録と伝世品に加え、寛永3年(1626年)の寛永行幸についても、当時の装束を描いた絵図や現存資料をもとに復元・検証が行われている[41]。

寛永3年(1626年)の寛永行幸で徳川家光が着用した束帯の黒袍
寛永3年(1626年)の寛永行幸で徳川家光が着用した束帯の黒袍。『御装束之図』より

寛永行幸では「一日晴」として、下襲や表袴などに通常とは異なる華やかな色・文様・織り方や装飾を用いることが許された[42]。ただし、身分にかかわらず自由な装飾が認められたわけではなく、位階によって用いることのできる織物や装飾には違いがあった。三位以上の公卿には唐織物や二陪織物などの文織物が用いられた一方、四位・五位の殿上人では、下襲や表袴に文織物を用いず、刺繍や摺箔などによって装飾したとされる[43]。このように、寛永行幸にみられる華美な束帯にも、一日晴として位階に応じた一定の規制があった。

寛永行幸の装束については、絵図や実物も伝わっている。東京大学史料編纂所所蔵の『御装束之図』には、徳川秀忠・家光らの袍・下襲・表袴などが描かれ、一日晴の装束も収録されている。これらの図は、寛永行幸で用いられた家光の装束を復元する際の資料ともなっている[44]。家光の装束そのものは現存していないが、寛永行幸の際に着用された束帯の一部は現存しており、徳川頼宣の装束が和歌山県内の寺院に、当時鳥取藩主であった池田光政の装束が岡山県内の美術館に伝来している[43]。

一方、製作技術には実際に一時的な断絶が生じたものもあった。冠の素材に用いられる羅については、『実隆公記』に、冠師が近ごろ羅を織ることができないと述べた旨の記事がみえる[45]。ただし、基本的な網目状の無文羅の製織は、江戸時代初期にはすでに再び行われていた。増上寺の徳川家霊廟から発見された、寛永9年(1632年)に没した徳川秀忠の冠には無文羅が用いられており、遅くとも1632年以前にはその製織が再開していたことが分かる。一方、複雑な文様を織り出す文羅の製織技術は江戸時代には復興せず、文様は刺繍によって表されるようになった[45]。

近世の装束考証

束帯の袍。有栖川宮幟仁親王所用(江戸時代、19世紀)

17世紀中頃以降、公家社会では、束帯を含む公家装束について、日記・部類抄・装束抄などの文献に加え、古神宝・什宝・絵巻物・似絵などを参照し、その形式や着装、文様などを考証する研究が進んだ。野宮定基らによる古図の検討や、高倉家などに伝わる装束関係資料の調査も行われ、文献だけでなく実物や図像を用いた装束研究が展開した[46]。

こうした装束故実の研究は18世紀から19世紀にも継続した。寛政2年(1790年)の新造内裏では、古記録などに基づく内裏の復原に際して、そこで行事に奉仕する官人の装束・装身具についても古式が考証され、その成果が調進に反映された[47]。その後も装束の古儀に関する調査・考証は続き、光格天皇・仁孝天皇の時代を経て、幕末の孝明天皇の時代に有職故実の復興は頂点に達した[48][49]。

近現代の変化と継承

令和元年(2019年)、黄櫨染御袍を着用した第126代天皇徳仁

明治維新後は、宮廷の欧風化と洋装の採用により、束帯をはじめとする装束の着用機会は減少した[49]。明治元年(1868年)の明治天皇の即位礼では、天皇は黄櫨染御袍の束帯姿で紫宸殿に出御したが[50]、明治5年(1872年)には洋式の大礼服・通常礼服が制定され、衣冠・束帯など従来の宮廷装束は公的な服制の中心から退いた[51]。また、天皇の束帯に用いられた青色袍・赤色袍は明治時代に廃止された[52]。

一方、明治42年(1909年)には皇室令第1号として登極令が制定され、践祚から即位の礼・大嘗祭に至る儀礼の手続が制度化された[53]。即位礼の服制については、明治天皇の即位礼で採用された、天皇が黄櫨染御袍の束帯を着用し、式に奉仕する者が束帯を用いる形式が継承された[54]。登極令に基づく最初の即位礼となった大正4年(1915年)の大正天皇の即位礼でも、天皇は黄櫨染御袍の束帯を着用し、昭和3年(1928年)の昭和天皇の即位礼でも同様に黄櫨染御袍の束帯が用いられた。

この伝統は戦後の即位礼にも継承された。平成2年(1990年)の即位礼正殿の儀では、天皇(現・上皇明仁)が黄櫨染御袍の束帯を着用し、男性皇族は束帯、女性皇族は十二単で参列した[55]。

令和元年(2019年)の即位礼正殿の儀でも、天皇は黄櫨染御袍の束帯、皇嗣は黄丹袍の束帯を着用し、ほかの男性皇族や儀式に奉仕する者にも束帯が用いられた[56]。一方、同年の大嘗祭では、天皇は帛御袍の束帯を着用し、大嘗宮の儀では皇嗣・親王や宮内庁職員、威儀の者・衛門などが束帯に小忌衣を重ねた[57]。

神社祭祀における束帯の使用は限定されており、一般の神職の正装には衣冠が用いられる一方、賀茂祭・石清水祭・春日祭の三勅祭では束帯を着用する場面があり、神宮式年遷宮でも上級神職が束帯を着用する[58]。神宮式年遷宮では束帯の上に明衣(みょうえ)を重ねる形式も用いられる[59]。平成25年(2013年)の第62回神宮式年遷宮で実際に使用された束帯も、後に神宮徴古館で展示されている[60]。

種類

縹袍を着用した即位礼の衛門
即位礼における衛門の武官束帯(縹袍)

束帯には、文官と武官の別をはじめ、晴儀と日常、身分、季節、年齢、時代による区別があった[61]。

文官の束帯では、冠は 垂纓冠 (すいえいのかんむり)を用い、纓(えい)を後方に垂らす。袍には、脇を縫い合わせた縫腋袍を着用した。武官の束帯では、纓を巻き上げた 巻纓冠 (けんえいのかんむり)を用い、左右に黒馬の毛で作った 緌 (おいかけ)(老懸とも)を付ける。儀仗に立つ場合など武具を帯びる際には、脇を縫い合わせない闕腋袍を着用した[62][63]。

闕腋袍と縫腋袍の使い分けは、位階や着用場面によっても異なった。平安時代前期には、五位以上の武官は、儀仗に立つ場合や武具を帯びる場合を除いて縫腋袍の着用を許され、公卿に列する武官は通常、縫腋袍を用いた[64]。

天皇の束帯は、文武の別では文官の様式に属した。天皇は元服後には烏帽子を用いず、被り物には冠を用いた。一方、元服前の天皇・皇太子・上皇は冠を用いず、未成年の皇族には闕腋袍と空頂黒幘を用いる装束もあった[65]。

晴儀用の束帯は 物具 (もののぐ)と呼ばれ、日常用の束帯では構成要素の一部が省略された。身分によっても構成要素の色・材質・文様などが異なった[62]。季節については冬と夏の二季に大別され、冬は袷、夏は薄物または一重仕立てとするなど、構成要素の材質・色・文様に違いがあった[66]。

年齢によっても色・材質・文様などに違いがあり、若年・壮年・老年に応じた装束が用いられた。ただし、こうした年齢による区別は必ずしも厳格なものではなく、着用者本人の判断による部分が大きかった。特に身分の高い者ほど、実年齢より上の年齢に相当する装束を着用する傾向があった[67]。このほか、時代によっても束帯の構成要素や様式には変化がみられた[68]。

構成

束帯の各部分を示した図
束帯の構成

図に示した文官束帯の主な構成要素は次のとおりである。

  • 1:垂纓冠
  • 2: 袍 (ほう)
  • 3: 笏 (しゃく)
  • 4: 飾太刀 (かざりたち)
  • 5: 平緒 (ひらお)
  • 6: 表袴 (うえのはかま)
  • 7: 大口袴 (おおぐちばかま)
  • 8: 下襲の裾 (したがさねのきょ)
  • 9: 浅沓 (あさぐつ)

文官束帯では、袴は大口袴をはき、その上に表袴を重ねる。上半身には単・衵・下襲・半臂などを重ね、その最上に袍を着用したが、下着類の構成には身分や晴儀・日常による違いもあった[69][70]。単は最も内側に着用し、衵はその上に重ねる衣で、上位者が用いた。晴儀用の物具では、さらに衵の上に打衣を重ねる場合があった[71][72]。

半臂は袍の下、下襲の上に着用する袖の短い胴衣である。12世紀になると、冬の縫腋袍の束帯では外から見えないため、省略されるようになった[33]。

袍は盤領で、裾に横布の襴を備え、襟を紐で留める。文官は両腋を縫い合わせた縫腋袍を用いるのに対し、武具を帯びる武官は両腋を縫い合わせない闕腋袍を用いた。袍より下の構成は、縫腋袍・闕腋袍の束帯で基本的に共通していた[73]。

袍の上から革製の帯である 石帯 (せきたい)を締める。石帯には 銙 (か)と呼ばれる飾りを付け、儀式の際には魚形の飾りである 魚袋 (ぎょたい)を垂らした。冠をかぶり、 笏 (しゃく)を手に持ち、 帖紙 (たとう)と 檜扇 (ひおうぎ)を懐中し、足には 襪 (しとうず)を履いた[71][74]。

履物には浅沓や靴などがあった。浅沓は平常用の浅い履物で、もとは革製であったが、のちには木製のものも用いられた。靴は儀式・行事に用いる革製のやや深い履物であった[71]。

晴儀用の 物具 (もののぐ)では、帯剣を許された文官は太刀を佩き、武官は太刀と弓箭を備えた[75]。武具を帯びる武官の束帯では、闕腋袍を着用し、太刀を佩き、平胡籙に矢を収めて弓を携えた[76]。

下襲の裾

束帯を着た人物が下襲の長い裾を後方に引く場面
『伴大納言絵詞』に描かれた、下襲の裾を長く引く束帯姿の人物(12世紀)

下襲は後ろ身頃を長く仕立てる点を特徴とし、この長く延びた部分を「裾(きょ)」(尻とも)という。本来の裾は 纔著 (さいじゃく)といい、地面にわずかに着く程度の長さであったが、時代が下るにつれて長大化した[77]。裾の長さには身分に応じた規定が設けられ、親王・大臣・納言・参議などで異なる寸法が定められていたが、後には規定を超えて裾を長くする風潮もみられた[73]。

強装束以降には裾がさらに長大化し、その処理が困難になったため、下襲本体と裾を分離した形式が生じた。これを別裾といい、別裾には腰紐を付け、下襲本体を着用した後に腰へ結んだ。一方、天皇は強装束以降も裾と本体が一体となった下襲を着用し、これを続下襲という[78]。

身分規定

束帯には、着用者の位階や身分に応じて、袍の色・材質・文様や、下着類の材質・文様などに規定があった。上着である袍の規定は律令以来の位階制を基本とする一方、表袴・下襲・半臂などの下着類には、公卿・殿上人・地下官人など、平安時代に形成された身分秩序を反映した規定があった[79][80]。

位袍

黄丹袍を着用した束帯姿の東宮敦良親王(後の後朱雀天皇)。『駒競行幸絵巻』より。鎌倉時代、13世紀末~14世紀初頭。
黄丹袍を着用した束帯姿の東宮敦良親王(後の後朱雀天皇)。『駒競行幸絵巻』より。鎌倉時代、13世紀末~14世紀初頭。

袍の色は位階に応じて定められ、これを位色、その袍を位袍という[81]。位色は律令制の衣服令に定められた色を基礎としつつ、奈良時代から平安時代にかけて改変された。衣服令では臣下の五位は浅緋、六位は深緑とされたが、位色には次第に濃色化する傾向がみられ、摂関期以降には、親王などの皇族および四位以上の臣下は黒、五位の臣下は深緋、六位以下の臣下は深緑を用いる体系となった[82][83]。ただし、検非違使・弾正台・外記・史などの五位は、本来の五位色である浅緋を用いた。院政期以降、六位以下の位袍は深縹へと変化した[83]。なお、衣服令で規定される紫の位袍が、摂関期に黒に変化した点について、同時代の明法家、惟宗允亮は、媒染と染料の色味・半臂や下襲による重ねの色味に、赤と黒を使用していることを踏まえ、赤+黒=紫とみて、黒い位袍が、令式にそぐうものであると解釈している。[84]

天皇の位袍には、白・黄櫨染・青色・赤色の4種類があり、公事によって使い分けられた[52]。白は斎服や帛御衣の位袍、黄櫨染は正式の束帯の位袍の色であり、いずれも束帯の位袍では天皇のみが使用できる色であった。黄櫨染は茶に近い色である[52]。青色は麹塵・青白橡などとも呼ばれ、現代の青系の色ではなく黄緑に近い色であった。赤色は赤白橡とも呼ばれ、黒味がかった赤であった[52]。青色・赤色は天皇の略儀の束帯に用いられたが、上皇や臣下も位袍の色として使用したため、天皇に固有の位色ではなかった。現在まで継承されているのは白と黄櫨染で、青色・赤色は明治時代に廃止された[52]。

上皇には固有の位色はなく、赤色・青色・黒などを適宜用いた[85][86]。皇太子の位色は黄丹で、橙色に近い色である[87]。弘仁11年(820年)の詔で朝服の上着の色とされ、のちに皇太子の束帯の位袍の色として継承された[86]。

位袍の色(概要)[88]
着用者 色見本 色 備考
天皇 白 斎服・帛御衣の位袍の色。
黄櫨染 櫨と蘇芳による茶に近い色。正式の束帯の位袍の色。
青色(麹塵) 現代の青系ではなく黄緑に近い色。略儀の束帯に用い、上皇・臣下にも使用例がある。
赤色 黒味がかった赤。略儀の束帯に用い、上皇・臣下にも使用例がある。
上皇 — 固有の位色なし 赤色・青色・黒などを適宜用いた。
皇太子 黄丹 支子と紅花による橙色に近い色。皇太子に固有の位色。
親王などの皇族・四位以上の臣下 黒 摂関期以降。橡や五倍子鉄漿染による黒。
五位の臣下(原則) 深緋 摂関期以降。紫根と茜で染めた。
五位の臣下(検非違使・弾正台・外記・史など) 浅緋 衣服令以来の本来の五位色。茜で染めた。
六位以下の臣下(摂関期) 深緑 藍に刈安を重ねて染めた。実質的には六位。
六位以下の臣下(院政期以降) 深縹 藍で染めた。
※色見本は、本文中の色調や染料の説明を視覚的に補助するため便宜的に示した参考色であり、歴史的な染色・織色を復元したものではない。実物の色調は染料・材質・時代などによって異なる。

位袍の色には禁色として扱われたものもあった。青色袍(麹塵袍)は禁色とされたが、禁色宣旨を受けた蔵人には着用が認められた[89]。

位袍では、色だけでなく材質にも身分と季節による規定があった。冬は袷とし、五位以上では表地に綾、裏地に平絹を用いたのに対し、六位以下では表裏とも平絹を用いた。夏は一重とし、五位以上では穀紗、六位以下では無文穀織を用いた[90]。

位袍の文様も身分によって異なり、原則として冬・夏で同じ文様を用いた。天皇の黄櫨染・青色・赤色の位袍には桐竹鳳凰文が用いられた。当初は桐・竹・鳳凰を生地全体に織り出す総文様であったが、鎌倉時代以降には州浜や麒麟が加えられ、これらを箱形にまとめて一つの文様とし、生地に配する形式へと変化した。斎服・帛御衣の白の位袍は無文であった[90]。

皇太子・親王・上皇にもそれぞれ異なる文様が用いられた。また、臣下の位袍には多様な文様があり、時代による流行もみられた。院政期以降、摂関家などの家が成立すると、位袍の文様にも家ごとに定まった家流が形成された[90]。

位袍の主な文様(概要)[90]
着用者 主な文様 備考
天皇 桐竹鳳凰文 黄櫨染・青色・赤色の位袍に用いる。鎌倉時代以降は州浜・麒麟を加えた形式へ変化した。白の斎服・帛御衣は無文。
上皇 窠中桐竹文・八曜菊文・尾長鳥唐草文など 文様は一定せず、複数の文様が用いられた。
皇太子 窠(六花形)の中に唐鳥を配した文様 現在も継承されている。
親王 雲鶴文 雲中を飛ぶ鶴を表す。現在も継承されている。
臣下 藻勝見文・輪無唐草文・纐纈唐草文など 平安時代には藻勝見文、鎌倉時代には唐草文が流行し、院政期以降は家ごとの家流も形成された。

下着類

表袴・下襲・半臂などの下着類にも、材質や文様について身分規定があった。しかし、その基準は位袍とは異なっていた。位袍の規定が律令以来の位階制を基本とするのに対し、下着類の規定は、公卿・殿上人・地下官人など、平安時代に形成された身分秩序を反映したものであった[79][91]。

下着類には禁色の規定もあり、一部の四位の殿上人や蔵人頭以下の蔵人などには、その使用が勅許された。このため、位袍によって位階上の身分が示される一方、上着から見える下着類によって、公卿・殿上人・地下官人などの身分や、禁色を勅許された天皇の近侍者としての立場が示される場合があった[91]。

一日晴

一日晴(いちにちばれ)とは、行幸などの特別な機会に、その日に限って通常とは異なる華やかな装束を用いることを許す慣行である。束帯では、下襲やその裾などに各人の好みに応じた色や文様が用いられ、このような装いは「染装束」とも呼ばれた[92]。寛永3年(1626年)の寛永行幸でも、一日晴の束帯が用いられた[93]。

一日晴の装束は絵画資料にも描かれている。『年中行事絵巻』にその姿がみられるほか、鎌倉時代末期に制作された『駒競行幸絵巻』では、公卿たちが色とりどりの裾を欄干に掛ける姿が描かれている[92]。

用途

『春日権現験記絵』巻二「寛治御幸事」に描かれた白河上皇の春日社御幸。牛車の周囲や殿上に、束帯を着用した公卿・文官と、弓箭を携えた武官が描かれている(鎌倉時代、14世紀初頭)。
『春日権現験記絵』巻二「寛治御幸事」に描かれた白河上皇の春日社御幸。牛車の周囲や殿上に、束帯を着用した公卿・文官と、弓箭を携えた武官が描かれている(鎌倉時代、14世紀初頭)。

平安時代の貴族官人は、参内する際、原則として束帯を着用した。『御堂関白記』『小右記』『後二条師通記』などには、参内のため束帯を着る例が多くみえる[30]。

束帯は構成要素が多く、着装には時間を要した。『小右記』寛弘2年(1005年)11月23日条には、藤原実資が参内のため束帯に着替えている間、訪問者を待たせて食物をすすめた例がみえる[30]。

ただし、参内に際して常に束帯が求められたわけではなく、事情や身分によって直衣での参内が認められる場合もあった[94]。

朝賀・御斎会などの大極殿の儀、節会などの紫宸殿の儀では、公卿・殿上人は位袍の束帯で列立・着座した。儀式書に束帯と明記されない場合でも、それは通常の儀式において束帯着用が自明であったためとされる[95]。また、陣座で政務を行う場合にも、公卿・蔵人・弁・史などは位袍の束帯を着用した[96]。

一方、関白邸や大臣邸など私的性格の強い場では、公卿は直衣、殿上人は衣冠または束帯を用いるなど、身分や便宜に応じた着分けが行われた[97]。束帯は宮廷社会において、公的な場、身分秩序、職務の性格を可視化する装束でもあった。

また、武家でも、将軍をはじめとする五位以上の者は、大儀に際して束帯を着用した[1]。

布袴・衣冠・直衣との関係

直衣を着て座る藤原道長
『紫式部日記絵巻』に描かれた直衣姿の藤原道長(13世紀)

束帯・布袴・衣冠・直衣は、それぞれまったく異なる衣服一式からなるのではなく、多くの構成要素を共有しながら、その組み合わせを変えることで異なる装束形式となる。とくに布袴・衣冠・直衣では、束帯の大口・表袴に代えて下袴・指貫を用いる点が共通しており、これが束帯との大きな相違点である[98]。

布袴は「布袴束帯」の略称で、指貫を着用する束帯を意味する。文官の日常の束帯から、大口・表袴を下袴・指貫に替えたもので、それ以外の構成は基本的に束帯と共通する[99]。冠には垂纓冠を用い、下袴・単・衵・指貫・下襲を重ね、その上に位袍を着用し、石帯を締める。笏・扇・帖紙を携え、襪・浅沓を用いる[99]。このため布袴は、束帯に近い構成をもちながら、袴を指貫に替えた略装と位置づけられる。

衣冠も束帯の略装にあたる公服であり、布袴や冠直衣と、冠から指貫までの基本的な構成を共有する。これらは、その共通する下着類の上に何を着用するかによって区別され、布袴では位袍、衣冠では衣冠に定められた袍を着用する[98]。衣冠では、束帯に比べて下襲・石帯・太刀・襪などを省略する場合もあり、より軽装の公服として用いられた[100]。

直衣は本来、私服であったが、装束の構成には布袴・衣冠との共通性があり、冠を着ける冠直衣では、冠から指貫までの構成をこれらと共有した[99]。身分や勅許によっては公的場面にも用いられ、内裏焼亡などの緊急時、院使としての参内、直衣宣旨を受けた摂関の参内などでは直衣が用いられる場合があった[94]。ただし、天皇御前の儀式や殿上での公的な勤務に際しては、直衣から束帯に着替える例がみられる[101]。

現存資料

神社に奉納され、古神宝として伝来した服飾類の中には、応仁の乱以前の宮廷工芸の形式を伝えるものがある。束帯についても、熊野速玉大社・熱田神宮・春日大社・厳島神社などに、その構成品が古神宝として伝来している[102]。

明徳元年(1390年)に足利義満が熊野速玉大社へ奉納した古神宝類(国宝)のうち、「袍 萌黄浮線綾丸文固綾」は、神宝目録に記載された「御束帯一具」のうち、「御袍一領 麹塵丸文浮線綾、裏紫遠菱平綾、中部上絹」に該当すると考えられている[103]。

麹塵袍は天皇・太上天皇の御服であり、その色は禁色とされ、天皇・太上天皇のほか、天皇から着用を許された蔵人以外の臣下には着用が認められなかった。このことから、この袍は「神服」ではなく、「束帯」の一つとして熊野速玉大社に奉納されたものと考えられている[104]。

このほかにも、神宝目録の「御束帯」欄に記載された品目のうち、現存品と一致すると考えられるものがある。表中の「中御前速玉宮」は熊野速玉大社の第二殿を指す[105]。「飛鳥宮」は、熊野速玉大社の境外摂社である阿須賀神社を指す。同社伝来の古神宝類(国宝)は昭和30年(1955年)に国有となり、現在は京都国立博物館に所蔵されている[106][107]。

なお、神宝目録の「御束帯」の項には、束帯の構成品のほか、直衣・玉佩・衾・冠箱・笏箱・衣箱・入帷・平褁なども記載されている[108]。したがって、以下の表は束帯の構成要素一覧ではなく、神宝目録上「御束帯」の項にまとめて記載された品目と現存品との対応を示すものである。表中の○は、浅野ほか(1968)が「現存品と一致すると思われるもの」とした品目を示す。空欄は、同書の表で○が付されていないことを示す[109]。

「御束帯」記載品と現存品との対応
品目 中御前速玉宮
(熊野速玉大社第二殿)
飛鳥宮
(阿須賀神社)
冠 ○ ○
冠箱 ○ ○
袍 ○
直衣 ○
半臂
下襲
袙
衣
単 ○ ○
袴 ○
大口 ○
玉佩 ○
石帯 ○
帯 ○
衾
笏・笏箱
扇
襪 ○ ○
履 ○ ○
入帷
平褁
衣箱 ○ ○

熱田神宮には、室町時代に遡る束帯の下襲3領が、それぞれに対応する別裾3腰とともに現存しており、いずれも下襲本体と裾を分離した別裾の形式である[110]。また、重要文化財「古神宝類」に含まれる、束帯に用いる「表袴 白窠霰文二重織」3腰も現存している[111][112]。いずれも白地に濃紫・淡紫・萌黄の3色で窠霰文を織り出した二重織物である[111]。

元禄12年(1699年)稿の『熱田旧記』には、長禄2年(1458年)に足利義政が熱田正殿五神の御衣と御唐櫃5合を奉納したと記されている[注釈 2][113][114]。天保14年(1843年)に成立した『尾張志』も、この記述を引用している[115]。熱田正殿五神は、天照太神・素戔嗚尊・日本武尊・宮酢姫命・建稲種命の5柱とされる[116]。

現存する装束類はおおむね長禄2年頃の製作とされ、装束の種別と員数から、3柱の男神と2柱の女神のために調進されたものと考えられている。このうち、表袴3腰は3柱の男神に対応するものとみられる[117][118]。

紀州東照宮には、徳川家康所用と伝えられる束帯一式が伝来している。これらは紀州初代藩主徳川頼宣が同社に寄進したものとされる[119]。調査報告では、黒袍・表袴・冬裾・夏単(単)・冬胴服(衵)・夏半臂・冬下襲・冠・笏・石帯・襪・沓の12点が「束帯の装束に入るもの」として分類されている[120]。このうち、冠・笏・石帯・革沓・表袴・単・衵・下襲・襪などは、「徳川家康所用装束類」として和歌山県指定有形文化財に指定されている[121]。

黒袍は冬裾とともに、桐製の外箱と黒漆葵紋付蒔絵の内箱からなる二重箱に収められている。著しく損傷・褪色しているものの、地紋には葵丸紋と唐草が確認される[122]。冬下襲には白地唐花七宝文固地綾が用いられ、襪にもこれと同文の裂が用いられている[123]。石帯には瑪瑙が用いられ、冠は黒無文の紗製で纓を伴い、笏は木笏である[124]。

沓は柔らかな茶色の牛革製で、南蛮風の形態をもつ。調査報告では、この種の沓が束帯に用いられたことについて疑問が示される一方、現存資料としてきわめて珍しい例とされている[125]。

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ↑ 文官制服の「衣」について、『令集解』は「裁縫體制。一如朝服一也」とし、その裁縫形式は朝服の「衣」と同じであると注している。また、同書所引の「穴記」は「袍與衣不見其別也」と記している。このため、朝服と制服の「衣」は同じ形式で、いずれも袍と同様の盤領の上衣であったと考えられている[15]。
  2. ↑ 原文は「一 長禄二年公方義政公被献正殿五神御衣并御唐櫃五合」。

出典

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  16. ↑ 津田 2008, pp. 46, 53.
  17. ↑ 津田 2008, pp. 46–47.
  18. ↑ 津田 2008, pp. 47–49.
  19. ↑ 津田 2008, p. 51.
  20. 1 2 近藤 2024, p. 54.
  21. 1 2 津田 2008, pp. 45–46.
  22. ↑ 近藤 2024, pp. 55–57.
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  24. ↑ 奈良国立博物館 2004, p. 4.
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  26. ↑ 津田 2008, pp. 45–64.
  27. ↑ 津田 2008, pp. 45–46, 50–64.
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  29. ↑ 近藤 2008, p. 75.
  30. 1 2 3 孟 2016, p. 90.
  31. ↑ 國學院大學神道資料展示室 1983, p. 227.
  32. 1 2 3 近藤 2024, p. 61.
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  38. 1 2 近藤 2024, pp. 42–43.
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  41. ↑ 寛永行幸四百年祭実行委員会 2026, pp. 43–46.
  42. ↑ 寛永行幸四百年祭実行委員会 2026, p. 43.
  43. 1 2 寛永行幸四百年祭実行委員会 2026, p. 45.
  44. ↑ 寛永行幸四百年祭実行委員会 2026, pp. 44–46.
  45. 1 2 北村 1983, p. 73.
  46. ↑ 鈴木 1983, pp. 249–250.
  47. ↑ 鈴木 1983, p. 250.
  48. ↑ 鈴木 1983, pp. 250–253.
  49. 1 2 近藤 2024, pp. 44–45.
  50. ↑ 近藤 2024, p. 235.
  51. ↑ 武田 & 津田 2016, p. 333.
  52. 1 2 3 4 5 近藤 2024, p. 93.
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参考文献

関連項目

外部リンク


束帯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 21:03 UTC 版)

「日本の染織工芸」の記事における「束帯」の解説

この時代、男子の正装は前述した束帯姿である。体に近い方から単(ひとえ)、衵(あこめ)、下襲(したがさね)、半臂(はんぴ)、袍(ほう)を着し、下半身には大口の上に表袴(うえのはかま)を穿き、足には襪(しとうず)を穿き、石帯(せきたい)を付け、頭には冠を被り、腰に太刀を佩き、手には笏を持つのが正装であった。袍は位階や年齢によって使用する色に細かい決まりがあった。半臂は袖なしの衣で、省略される場合もあった、下襲は背後に長く裾(きょ)を引くのが特色で、歩くときは供の者に裾を持たせることもあった。石帯は革製のベルト、襪は足指のない足袋である。束帯の大口と表袴を指貫(さしぬき)に代えたものを布袴姿(ほうこすがた)、さらに袍を直衣(のうし)に代えたものを直衣布袴姿といった。指貫は、裾を括り緒で括った、ゆったりとした袴である。束帯はあらたまった礼装であり、通常は衣冠や直衣が用いられることが多かった。衣冠は束帯の半臂、下襲、衵、襪、石帯を略したもので、長く裾を引く下襲を用いず、石帯の代わりに共布の紐を用い、大口と表袴の代わりに指貫を用いた。衣冠の袍を直衣に代えたものが直衣姿である。普段着としては狩衣があった。

※この「束帯」の解説は、「日本の染織工芸」の解説の一部です。
「束帯」を含む「日本の染織工芸」の記事については、「日本の染織工芸」の概要を参照ください。

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