昭和天皇とは?

しょうわ‐てんのう〔セウワテンワウ〕【昭和天皇】

[1901〜1989]第124天皇在位1926〜1989大正天皇の第1皇子。名は裕仁(ひろひと)。大日本帝国憲法下では唯一の主権者として統治権総攬(そうらん)したが、第二次大戦後神格化否定する「人間宣言」を発表日本国憲法成立で、日本国および日本国民統合象徴となった。生物学研究でも知られる。


昭和天皇 武蔵野陵
(しょうわてんのう むさしののみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第124
天 皇 名 :昭和天皇
しょうわてんのう
御   父 大正天皇
御   母 貞明皇后
御 陵 名 武藏野陵
むさしのみささぎ
陵   形 :上円下方
所 在 地 東京都八王子市長房町  武蔵陵墓地
交通機関等 JR京王高尾北口下車  東へ1.5km
陵印保管場所 多摩陵墓監区事務所

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 00:14 UTC 版)

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位:1926年大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)[2]お印若竹(わかたけ)。




注釈

  1. ^ 継宮明仁親王が誕生する1933年(昭和8年)12月23日以前の皇嗣。ただ、昭和天皇と香淳皇后の間に男子が誕生する可能性が充分にあったため、皇太子や皇太弟にはたてられなかった。
  2. ^ 1933年(昭和8年)12月23日以降
  3. ^ 代数は皇統譜による。
  4. ^ 常陸宮正仁親王は第二皇男子/第6子、秋篠宮文仁親王は孫、悠仁親王は曾孫にあたる。
  5. ^ 女系も含めると妻の香淳皇后1903年明治36年〉誕生)の方が、昭和天皇(1901年〈明治34年〉誕生)よりも年少であることから、より最も近い共通祖先にあたる
  6. ^ 允(まこと)に厥(そ)の徳を(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ
  7. ^ に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり
  8. ^ 益は徳のなり
  9. ^ これ、兄弟の綽綽にしてあり
  10. ^ 問ふを好めば則ちに、自ら用(こころ)みれば則ち小なり
  11. ^ であらば仁の作すなり
  12. ^ このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王(鳩彦王妃允子内親王)、泰宮聡子内親王(東久邇聡子)の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
  13. ^ (昭和とは)別の元号(「光文」読み:こうぶん)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったので政府が急ぎ慌てて「昭和」に変更したとの説もある(光文事件)。
  14. ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
  15. ^ 長男である皇太子明仁親王同妃美智子(いずれも当時)は出席したものの、后である香淳皇后腰椎骨折による身体不自由状態のため欠席した。
  16. ^ このとき後藤田正晴内閣官房長官が同席しており、妻に山本悟宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている[13]
  17. ^ 崩御の際、御座所には皇太子明仁親王・同妃美智子夫妻、常陸宮正仁親王・同妃華子夫妻及び竹下登内閣総理大臣が詰めていたとされる。
  18. ^ なお、NHKの記者であった橋本大二郎(後に高知県知事などを歴任。)も、藤森昭一宮内庁長官(当時)や当時の皇室医務主管(兼侍医長)が発表した経緯から、「多臓器不全の状態だったのではないか」と語っている。また、「腫瘍の原発部位が十二指腸なのか膵臓なのかが分からなかったようだ」とも語っている。
  19. ^ 大行天皇(たいこうてんのう)とは、皇位継承が起き即位した新天皇と区別するため、追号されるまでの崩御した先代の天皇に対する呼称。
  20. ^ 関東大震災では山階宮武彦王の妃佐紀子女王閑院宮家の寛子女王東久邇宮家の師正王が薨去した。
  21. ^ 木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
  22. ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳だけはこれを信じていない[43]
  23. ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から鈴木貫太郎内閣において2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では「受諾賛成」が鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳外相)、米内光政海相)、受諾反対が阿南惟幾陸相)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼騏一郎(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
  24. ^ 全国の地方部隊にも、行事の中止・派手なイベントの自粛を通達している。
  25. ^ 文化祭(学園祭・大学祭)を中止したのは大妻女子大学(校舎が皇居近くにあるため)、防衛医科大学校(防衛庁からの行事自粛通知)[73]
  26. ^ これとは別に、コミックマーケットも1988年冬に開催予定だったC35が会場が確保できなかったために翌1989年3月に延期されているが、開催予定だった時期が自粛ムードが漂っていた時期であったため、「昭和天皇の病状悪化が原因で開催が延期された」という誤解もある。
  27. ^ 代わりに「謹迎新年」「清嘉新春」が使用された[74]
  28. ^ 日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている。
  29. ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。毎日新聞ほか。
  30. ^ 6時35分からの宮内庁会見で宮尾盤次長による危篤発表を受けて、6時36分18秒に緊急放送チャイムとともに「臨時ニュース」と表示され、全波同時放送に切り替え。
  31. ^ 7時55分からの宮内庁会見で藤森昭一長官による崩御発表を受けて、7時57分6秒に緊急放送チャイムとともに黒地に白で「天皇陛下 崩御」と表示された。
  32. ^ 緊急放送チャイムとともに「新元号決まる」と表示され、教育テレビ・ラジオ第2・衛星第2でも放送される。
  33. ^ 総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2
  34. ^ 7日5時24分から6時および7日6時36分18秒から8日0時5分40秒。7日6時から6時36分18秒までのFMは通常番組『あさの音楽散歩』を放送。
  35. ^ 1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ニュース』(6時36分から10時まで)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から13時10分まで)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
  36. ^ 沖縄タイムス琉球新報は昭和天皇の死に際して、沖縄県民の反天皇感情から「崩御」の文字を使うことは天皇の神聖視と映るため、反発を招くと判断したため「ご逝去」という表現をした。また、日本新聞協会加盟の新聞社では前述2紙の他に苫小牧民報日本海新聞長崎新聞も「ご逝去」として報道した。
  37. ^ 宮内庁の正式な発表による7時55分の死去を含む。
  38. ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
  39. ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
  40. ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
  41. ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[141]
  42. ^ ただし、事変直後ではない[143]
  43. ^ 植物学者として多くの植物の命名を行なった牧野富太郎は「雑草という名の植物は無い」という発言を複数回しており、これとの関連を指摘する意見もある。雑草#関連発言

出典

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  72. ^ ただし、1989年1月2日に放送された『愛ラブ!爆笑クリニック正月スペシャル』については同社オープニングキャッチが特別的に放送された。
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    昭和天皇もコロンボのファンで、1975年に訪米された際は実現こそしなかったが、フォークが昼食会に招待されたこともあった。
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    時間の都合がつかず、私自身はその番組を見ることはできませんでしたが、一般の国民が非常に楽しんで見たと聞いています。
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