昭和天皇とは? わかりやすく解説

しょうわ‐てんのう〔セウワテンワウ〕【昭和天皇】


昭和天皇 武蔵野陵
(しょうわてんのう むさしののみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第124
天 皇 名 :昭和天皇
しょうわてんのう
御   父 大正天皇
御   母 貞明皇后
御 陵 名 武藏野陵
むさしののみささぎ
陵   形 :上円下方
所 在 地 東京都八王子市長房町  武蔵陵墓地
交通機関等 JR京王高尾北口下車  東へ1.5km
陵印保管場所 多摩陵墓監区事務所

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/21 15:40 UTC 版)

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位: 1926年大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)[2]お印若竹(わかたけ)。




「昭和天皇」の続きの解説一覧

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:53 UTC 版)

人間宣言」の記事における「昭和天皇」の解説

昭和天皇は、公的に一度主張しなかった神格放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇神聖な地位よりどころ日本神話神の子孫であるということ否定するつもりもなかった。実際、昭和天皇は自分神の子孫であることを否定した文章削除した。さらに、五箇条の御誓文追加して戦後民主主義日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言肯定的な意義盛り込んだ1977年昭和52年)の記者会見にて、昭和天皇は「神格放棄はあくまで二の次で、本来の目的日本民主主義外国から持ち込まれ概念ではないことを示すことだった」と述べた

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昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:45 UTC 版)

摩陀羅 天使篇」の記事における「昭和天皇」の解説

作中では1989年崩御せずに生き続けている。

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昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)

後藤田正晴」の記事における「昭和天皇」の解説

昭和天皇にご進講をすることが何度かあり、厳しく温かい叱責を受けることがあった。松子夫人一人園遊会出席したときには、昭和天皇自ら「後藤田長官大変だね」「長官によろしくね」と声がけした。昭和天皇の最初体調異変と言われる1987年誕生日祝宴での嘔吐いち早く気づき松子夫人伝令役にして山本悟宮内庁次長事態伝えている。 後藤田は、昭和天皇が本当に自身判断したのは終戦最終決断御前会議におけるポツダム宣言受諾聖断)のみで、この決断も本来は総理大臣であった鈴木貫太郎が行うべきものであり、戦争責任について輔弼責任者追及すべきであったとしている。

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昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 10:12 UTC 版)

オクタゴニアン」の記事における「昭和天皇」の解説

日本の国土焦土にした責任をとるため、菊人自分身代わりとして裁かれるのを拒否し菊人罷免する

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昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:53 UTC 版)

大喪の礼」の記事における「昭和天皇」の解説

1989年昭和64年1月7日崩御した昭和天皇の大喪の礼は、同年平成元年2月24日内閣主催大喪の礼委員会委員長:竹下登内閣総理大臣竹下改造内閣〉)により行われた。 「大喪の礼」は、当日午前9時35分に昭和天皇の霊柩乗せた轜車(じしゃ。霊柩車)を中心として組まれ葬列(車30台、サイドカー30台の車列全長800m)が、宮内庁楽部による雅楽『宗明楽』と陸上自衛隊第1特科連隊による21発の弔砲送られて、の降る皇居正門出発することに始まった出発前には、皇室の儀式大喪儀」である「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」(じしゃはついんのぎ)が執り行われ出発をもって国の儀式である「大喪の礼」が開式された。 葬列葬送曲哀の極』が奏楽される中、桜田門通り沿道集まった20万人人々の間を進み国会議事堂正門前、憲政記念館前、三宅坂赤坂見附青山一丁目外苑前青山三丁目経て新宿御苑葬場総門まで到着した(この途中青山通り若年過激派の男2人が「天皇制反対」を唱えて車列中に突入したが、即刻警備員補導されている)。到着後、昭和天皇の霊柩轜車から輦(そうかれん天皇用い屋上ネギ坊主)形の吉祥飾り着けた輿)に遷され、鈍色衣冠単という古式装束着け皇宮護衛官が「輿丁」としてこれを担ぐ徒歩列が組まれた。徒歩列は雅楽奏される中、白木造り葬場殿入り、霊輦(霊柩納められ輦)が安置された。 ここで、幔門(門に見立てられ黒一色幔幕)が閉じられ鳥居などが設置され、国の儀式である「大喪の礼」から皇室の儀式である「大喪儀」が執り行われ、「斂葬の儀」(埋葬当日儀式)のうち「葬場殿の儀」が執り行われることとなった。「葬場殿の儀」では、奠饌幣(幣帛奉じる神道儀礼)や天皇明仁当時)の拝礼と「御誄」(おんるい、弔辞)の奏上皇后美智子当時)を始めとする皇族親族拝礼厳かに営まれた。 明仁謹んで 御父昭和天皇の御霊申し上げます崩御あそばされてより、哀痛尽きことなく温容まのあたり在ってひととき忘れることができません。 櫬殿(しんでん)に、また殯宮ひんきゅう)におまつり申し上げ霊前にぬかずいて涙すること四十余日無常時は流れて、はや斂葬の日を迎え轜車にしたがって、今ここにまいりました顧みれば、さきに御病あつくなられるや、御平癒を祈るあまたの人々真心が国の内外から寄せられました。今また葬儀にあたり国内各界の代表はもとより世界各国国際機関代表する人々集いおわかれかなしみを共にいたしております皇位に在られること六十有余年ひたすら国民の幸福と平和を祈念され、未曾有の昭和激動の時代を、国民苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます。 こよなく慈しまれた山川に、草木に、春の色はようやくかえろうとするこのとき、空しく幽明隔てて、今を思い、昔をしのび、追慕の情はいよいよ切なるものがあります誠にかなしみ極みであります。 — 御誄(おんるい) 斂葬の儀 葬場殿の儀 「葬場殿の儀」が営まれた後、再び幔門が閉じられ鳥居等が外され内閣官房長官小渕恵三竹下改造内閣)が「大喪の礼御式を挙行いたします。」と開式告げることで国の儀式である「大喪の礼」は始められた。次いで天皇明仁皇后美智子いずれも当時)が葬場殿前に進み正午から1分間黙祷が行われた。黙祷の後、内閣総理大臣竹下登衆議院議長原健三郎及び参議院議長土屋義彦最高裁判所長官矢口洪一といった三権の長拝礼の上弔辞述べ参列した諸外国元首弔問使節拝礼参列者の一斉拝礼が行われ、葬場殿における「大喪の礼」は終了したその後午後1時40分から、再び葬列組み四谷四丁目新宿三丁目新宿四丁目首都高速道路4号新宿線初台出入口中央自動車道八王子インターチェンジ経て午後3時15分に、陵所が置かれる武蔵陵墓地着いた。陵所では再び徒歩列が組まれて、皇室の儀式として「陵所の儀」が営まれ、昭和天皇の霊柩が陵に納められた。この陵は、武蔵野陵名付けられた。 「大喪の礼」の当日は、公休日となった平成元年法律第4号「昭和天皇の大喪の礼行われる日休日とする法律」)。なお、都心雨天であった各地では弔旗半旗掲揚されたほか、全国テレビ・ラジオ放送NHK教育テレビNHK衛星第1テレビNHKラジオ第二を除く)も報道特別番組編成され民間企業CM自粛され、公共広告機構(現:ACジャパン)のCM差し替えられた。また、多く公共施設休館となり、多くデパート映画館なども休業したフジテレビドキュメンタリー番組世界日本を見つめた日』では、当日報道特集放送した。この日の全日帯での総世帯視聴率HUD)は、あさま山荘事件強行突入が行われた1972年2月28日匹敵する62.8%に達した。 「大喪の礼」には、世界各国から国家元首使節大使等164か国(EC委員会を含む)・27機関700人に及ぶ人々参列し弔問外交行われたとされる。また国内からは、皇族三権の長とその配偶者国会議員衆議院議員及び参議院議員)とその配偶者幹部公務員都道府県知事各界代表者等が参列した参列者の範囲平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼細目に関する件』による)。 主な国及び国際機関の代表参列国旗1989年当時のもの。また、諸外国及び国際機関の代表参列者の一覧は『外交青書』(1989年版)に掲載されている。世界中王室参列したが、オランダ王室だけは欠席したUAEムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下ラーシド外務担当国務大臣アル・マカーミ大使 南イエメンモサンナー通信運輸大臣ハイサム外務省儀典次長 イスラエルハイム・ヘルツォーグ大統領 イラクターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ副大統領ザハウィ上級外務次官アル・リファーイ大使及び夫人 イランミールサリーム(ペルシア語版、英語版副大統領ハランディ(ペルシア語版、英語版国会議員農業委員長)アデリ大使及び夫人 インドラーマスワーミ・ヴェンカタラマン大統領 インドネシアスハルト大統領 オマーンスワイニ国王代理殿下 韓国姜英勲国務総理東元外務次官李源京大使 民主カンボジア連合政府ノロドム・ラナリット王子 クウェートオサイミ外務担当国務大臣レズーキ外務省国際機関局長代行アル・シャーリフ大使及び夫人 サウジアラビアアブドゥラアジズ皇太子 シンガポールリー・クアンユー(李光耀首相 スリランカジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ前大統領 タイワチラーロンコーン皇太子チャートチャーイ・チュンハワン首相 中国銭其琛国家主席特使(外相)徐敦信外交部アジア司長楊振亜大使 トルコトゥルグト・オザル首相 ネパールギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ王子 パキスタンベーナズィール・ブットー首相 バーレーンアリ殿下首長名代) バングラデシュフセイン・モハンマド・エルシャド大統領 フィリピンコラソン・アキノ大統領 ブータンジグミ・シンゲ・ワンチュク国王ツェリン外務大臣レト大使 ブルネイハサナル・ボルキア国王 ベトナムダオ国家評議会副議長兼国会議長 モルディブマウムーン・アブドル・ガユーム大統領 ヨルダンフセイン1世国王ザイド・ビン・シャーケル殿下王宮長官)マダーダハ大使及び夫人 EC委員会アンドリーセン副委員長ワインマーレン副委員長官房長ファン・アフト大使 バチカンローマ教皇庁オッディ枢機卿カルー大使 スペインフアン・カルロス1世国王ソフィア王妃サパテロ国会関係首相府官房担当大臣バルシア大使 スウェーデンカール16グスタフ国王シルヴィア王妃フェルト大蔵大臣ヘイマン大使 オランダファン・デン・ブルック外務大臣ポストゥムス・メイエス大使及び夫人 ベルギーボードゥアン1世国王アラゴン王妃ティンデマンス外務大臣 デンマークヘンリク王配シモンセン大蔵大臣アナセン大使 リヒテンシュタインハンス・アダム皇太子 ノルウェーハーラル皇太子 ルクセンブルクジャン大公 ハンガリーブルーノ・ストラウブ国民議会幹部会議長 イギリスエディンバラ公フィリップダグラス・ハード外務大臣 フランスフランソワ・ミッテラン大統領ローラン・デュマ外務大臣ドゥコー外務大臣仏語圏国際文化交流担当大臣ドラン大使 フィンランドマウノ・コイヴィスト大統領 ドイツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領ゲンシャー副首相外務大臣ブレヒ大統領府長官ハリーヤ大使 ドイツ民主共和国ゲアラハ国家評議会副議長ニーア外務次官シュミット大使 アイスランドヴィグディス・フィンボガドゥティル大統領 アイルランドパトリック・ヒラリー大統領 イタリアフランチェスコ・コッシガ大統領 ポルトガルマリオ・ソアレス大統領 ソビエト連邦アナトリー・ルキヤノフ最高会議幹部会第一副議長 ポーランドバルチコフスキ国家評議会副議長 ルーマニアマネスク国家評議会副議長 モナコアルベール皇太子 アルバニアパパヨルギ大使 エジプトホスニー・ムバーラク大統領ブトロス・ガーリ外務担当国務大臣エルメニアウィ大使及び夫人 ケニアダニエル・アラップ・モイ大統領 ナイジェリアイブラヒム・ババンギダ大統領 トーゴニャシンベ・エヤデマ大統領 ザイールモブツ・セセ・セコ大統領 ザンビアケネス・カウンダ大統領 ガンビアダウダ・ジャワラ大統領 ブルンジ ピエール・ブヨヤ大統領 南アフリカ共和国クーン総領事 アンゴラヴァン・ドゥーネン外務大臣ハレー外務省アジア太洋局長 アルジェリアビタット国民議会議長ベントゥーネ国民議会議員ゼルーニ大使 モロッコシディ・モハメッド皇太子 アメリカ合衆国ジョージ・H・W・ブッシュ大統領バーバラ大統領夫人ジェイムズ・ベイカー国務長官スヌヌ首席補佐官ブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官アンダーソン臨時代理大使 カナダソヴェー総督 キューバフェルナンデス閣僚会議副議長教育大臣 ブラジルジョゼ・サルネイ大統領ソドレー外務大臣ツヅキ衛生大臣ブエノ大使 アルゼンチンマルティネス副大統領デ・ラ・グァルディア政策担当外務次官ロス大使 チリエラスリス外務大臣シルヴァ外務大臣秘書官ポンセ大使 オーストラリアジョージ・ハイドン総督ダフィー貿易交渉大臣ミラー大使 ニュージーランドポール・リーブス総督マーシャル外務大臣太平洋島嶼国問題大臣ゲイツ大使 トンガタウファアハウ・ツポウ4世国王 フィジーペナイア・ガニラウ大統領コロヴァヴァラ侍従武官ウォーカー大使 西サモアマリエトア・タヌマフィリ2世大首長 マーシャル諸島キジナー外務大臣 国際連合ハビエル・ペレス・デ・クエヤル事務総長明石康事務次長 アジア開発銀行藤岡眞佐夫総裁 国際連合 食糧農業機関プーリ・アジア太平洋地域事務所長(事務局長補) 関税および貿易に関する一般協定ダンケル事務局長 国際連合 国際復興開発銀行コナブル総裁 赤十字国際委員会キュング東アジア地域首席代表 米州開発銀行デ・アンドレア理事ペルーコロンビア担当国際農業開発基金ブラウン副総裁 国際労働機関中村事務局長国際連合 国際通貨基金カムドゥシュ専務理事 国際連合 国際電気通信連合ジプゲップ事務総局次長 経済協力開発機構ペイユ事務総長 国際連合 開発計画ドレーパー事務局長 教育科学文化機関ユネスコ)ヤケール事務局長特別顧問 国際連合 工業開発機関シアソン事務局長 世界保健機関中嶋宏事務局長 世界気象機関ホー・アジア南西太平洋地域担当部長 国際連合 大学グルグリーノ学長

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「昭和天皇」を含む「大喪の礼」の記事については、「大喪の礼」の概要を参照ください。


昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 16:48 UTC 版)

GHQ草案手交時の脅迫問題」の記事における「昭和天皇」の解説

1946年2月13日日本側に手交されたGHQ草案は、日本側により3月2日案として起草された。起草責任者は、皮肉にも松本であった3月2日案は、3月4-5日の「徹宵交渉」を経て3月5日閣議決定された(3月5日案)。閣議決定後、幣原首相松本参内し、昭和天皇に事の経緯奏上した。松本奏上様子侍従次長木下道雄次のように記している。 3月5日(火) 半晴夕刻幣原首相松本国相拝謁同時に内閣木内副書官長来室勅語案を持参す。事重大なり。よって、直ち大臣次官登庁求め7時両人来室。更に退出の両大臣来室求め、事の詳細聞く。(略)始め11日までに松本私案出せばよいことになっていたが、かくなってはそれ迄待てぬ。米国側の造った原案採用するか、しからざればEmperorperson保障できない云う強談判松本国相大い困り、やっとの事で一院制二院制改め得た訳。そしてかかる民定のものを勅語なくしてはどうしても出せという訳で勅語願った次第なり。(略) — 木下道雄側近日誌』より 「日本政府カ此ノ如キ憲法改正提示スルコトハ右ノ目的達成ノ為必要ナリ之ナクシテハ天皇身体パーソンオブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス」という松本手記どおりのことを、松本は昭和天皇に奏上した。史実としては、マッカーサーはこの奏上1カ月以上も以前1946年1月25日に、昭和天皇を戦犯裁判出さない決意固めアイゼンハワー陸軍参謀総長天皇戦争犯罪該当する証拠が見つからなかったとして、天皇戦犯として追訴すべきではないと電報送っている。しかし、昭和天皇周辺がその情報接するのは次の通り3月20日のことで、3月5日のこの時点ではそのこと知らなかった1946年3月20日寺崎英成御用掛は、マッカーサー天皇退位望んでいるか否かその真意知りたい、とフェラーズ大佐マッカーサー軍事秘書)に聞き情報初めもたらされた。 所謂「御退位論」に関する3月20日木下侍従次長より所謂退位に関するマックアーサー元帥真意探り得ざるやとの御話あり。 たまたま同日夜「フェラーズ大佐妻子と共に晩餐招待せられおりたるをもって同席の「グリーン大佐「スケンク」中佐帰還後、右に関しフェ」に問い質したるが、次の如き回答得たり。(寺崎質問省略) 「フェ」 余も率直に答え致すべし。「マ」元帥陛下親友なり。御退位に付て、自分元帥論議したること無きも、天皇戦犯とする考え方対し極東委員会参加国にありと付言せり)元帥反対意思表明し天皇にして戦犯指名せられんか、日本混乱に陥り、占領軍の数は多量に増強せらるるを要すべしと華府報告したることあるを自分承知す。御退位場合には、誰が後継者となるかに付き種々困難な問題生ずべく、戦犯場合同じく日本混乱陥るべし。叙上理由により『マ』元帥陛下後退位を希望せずと信ず。 — 所謂「御退位に関する木下道雄側近日誌』より

※この「昭和天皇」の解説は、「GHQ草案手交時の脅迫問題」の解説の一部です。
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