昭和天皇とは? わかりやすく解説

しょうわ‐てんのう〔セウワテンワウ〕【昭和天皇】


昭和天皇 武蔵野陵
(しょうわてんのう むさしののみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第124
天 皇 名 :昭和天皇
しょうわてんのう
御   父 大正天皇
御   母 貞明皇后
御 陵 名 武藏野陵
むさしののみささぎ
陵   形 :上円下方
所 在 地 東京都八王子市長房町  武蔵陵墓地
交通機関等 JR京王高尾北口下車  東へ1.5km
陵印保管場所 多摩陵墓監区事務所

昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/15 13:14 UTC 版)

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位: 1926年大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)[2]お印若竹(わかたけ)。


注釈

  1. ^ 明仁親王が誕生する1933年(昭和8年)12月23日以前の皇嗣。ただ、昭和天皇と香淳皇后の間に男子が誕生する可能性が充分にあったため、皇太子や皇太弟にはたてられなかった。
  2. ^ 1933年(昭和8年)12月23日以降
  3. ^ 代数は皇統譜による。
  4. ^ 2021年令和3年)9月2日、退位し上皇となっていた明仁が、父である昭和天皇に並んで歴代最長寿の天皇となった[6]
  5. ^ 常陸宮正仁親王は第二皇男子/第6子、秋篠宮文仁親王は孫、悠仁親王は曾孫にあたる。
  6. ^ 祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせており、他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
  7. ^ 允(まこと)に厥(そ)の徳を(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ
  8. ^ に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり
  9. ^ 益は徳のなり
  10. ^ これ、兄弟の綽綽にしてあり
  11. ^ 問ふを好めば則ちに、自ら用(こころ)みれば則ち小なり
  12. ^ であらば仁の作すなり
  13. ^ このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王(鳩彦王妃允子内親王)、泰宮聡子内親王(東久邇聡子)の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
  14. ^ 4月23日に竹田宮恒久王が薨去し、多くの皇族が服喪した。
  15. ^ 「波」はポーランド(波斯・ペルシャイランとは異なる)。ポーランドは、1919年から1921年のポーランド・ソビエト戦争で、レーニンが率いたボリシェビキ軍に敗退していた。
  16. ^ 1922年には、起訴便宜主義の法制化や、外国人も対象とした破産法の新設などが行われた。また、3月には私学の華族学校の女子学習院の組織が『女子学習院官制』により官営化され、9月28日には、納采の儀などの儀式が執り行われて、良子女王との婚約が正式に告示された[30]
  17. ^ (昭和とは)別の元号(「光文」読み:こうぶん)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、『東京日日新聞』に発表されてしまったので政府が急ぎ慌てて「昭和」に変更したとの説もある(光文事件)。
  18. ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
  19. ^ 仙洞御所内の御殿跡地に造営された。2019年令和元年)5月1日に「京都仙洞御所」に改称。
  20. ^ 同年9月に、記者から恒例化について質問を受け、天皇は個人としての感想については言葉を濁しつつ「関係者に検討させ、その答えをもって決定したい」と述べた[75]
  21. ^ 長男である皇太子明仁親王同妃美智子(いずれも当時)は出席したものの、后である香淳皇后腰椎骨折による身体不自由状態のため欠席した。
  22. ^ このとき後藤田正晴内閣官房長官が同席しており、妻から山本悟宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている[77]
  23. ^ 崩御の際、御座所には長男・次男夫妻の皇太子明仁親王・同妃美智子、常陸宮正仁親王・同妃華子及び竹下登内閣総理大臣が詰めていたとされる。
  24. ^ なお、NHKの記者であった橋本大二郎(後に高知県知事などを歴任)も、当時の藤森昭一宮内庁長官や高木顯皇室医務主管(兼侍医長)が発表した経緯から、「多臓器不全の状態だったのではないか」と語っている。また、「腫瘍の原発部位が十二指腸なのか膵臓なのかが分からなかったようだ」とも語っている。
  25. ^ 大行天皇(たいこうてんのう)とは、皇位継承が起き即位した新天皇と区別するため、追号されるまでの崩御した先代の天皇に対する呼称。
  26. ^ 関東大震災では山階宮武彦王の妃佐紀子女王閑院宮家の寛子女王東久邇宮家の師正王が薨去した。
  27. ^ 木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
  28. ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳だけはこれを信じていない[110]
  29. ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から鈴木貫太郎内閣において2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では「受諾賛成」が鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)、米内光政(海相)、受諾反対が阿南惟幾(陸相)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼騏一郎(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
  30. ^ ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を紹介したものである。
  31. ^ 全国の地方部隊にも、行事の中止・派手なイベントの自粛を通達している。
  32. ^ 文化祭(学園祭・大学祭)を中止したのは大妻女子大学(校舎が皇居近くにあるため)、防衛医科大学校(防衛庁からの行事自粛通知)[156]
  33. ^ 代わりに「謹迎新年」「清嘉新春」が使用された[157]
  34. ^ 日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている。
  35. ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。『毎日新聞』ほか。
  36. ^ 6時35分からの宮内庁会見で宮尾盤次長による危篤発表を受けて、6時36分18秒に緊急放送チャイムとともに「臨時ニュース」と表示され、全波同時放送に切り替え。
  37. ^ 7時55分からの宮内庁会見で藤森昭一長官による崩御発表を受けて、7時57分6秒に緊急放送チャイムとともに黒地に白で「天皇陛下 崩御」と表示された。
  38. ^ 緊急放送チャイムとともに「新元号決まる」と表示され、教育テレビ・ラジオ第2・衛星第2でも放送される。
  39. ^ 総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2
  40. ^ 7日5時24分から6時および7日6時36分18秒から8日0時5分40秒。7日6時から6時36分18秒までのFMは通常番組『あさの音楽散歩』を放送。
  41. ^ 1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ニュース』(6時36分から10時まで)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から13時10分まで)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
  42. ^ 沖縄タイムス』『琉球新報』は昭和天皇の死に際して、沖縄県民の反天皇感情から「崩御」の文字を使うことは天皇の神聖視と映るため、反発を招くと判断したため「ご逝去」という表現をした。また、日本新聞協会加盟の新聞社では前述2紙の他に『苫小牧民報』『日本海新聞』『長崎新聞』も「ご逝去」として報道した。
  43. ^ 宮内庁の正式な発表による7時55分の死去を含む。
  44. ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
  45. ^ 牛場信彦駐米大使宛て福田赳夫外相公電要旨「米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立寄りに過ぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい。本来儀礼的行事である今回の御会見はTop4(昭和天皇、香淳皇后、ニクソン大統領夫妻)の御会談が主であるべき。これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方としては到底受け入れられない。政治的会談ならば単独会談に続いて随員を加えての会談も考えられるが、今回の場合、随員は御挨拶以外には何等の役割を有しない。この部分にTop4よりも長い時間をかけることは、日本人に天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではない。」[185]
  46. ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
  47. ^ 1921年大正10年)3月6日に、欧州訪問への往路で6時間余り沖縄本島に滞在したことが、結果的に生涯唯一の同県訪問(皇太子時代のため「行啓」)となっている。詳細は皇太子裕仁親王の欧州訪問#往路及び昭和天皇の戦後巡幸#沖縄県についてを参照。
  48. ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
  49. ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[247]
  50. ^ ただし、事変直後ではない[249]
  51. ^ 日本でのカルロス3世勲章捧呈は翌1924年(大正13年)5月24日[293]
  52. ^ 日本での金羊毛勲章奉呈は、翌1929年2月26日[303]

出典

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昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:53 UTC 版)

人間宣言」の記事における「昭和天皇」の解説

昭和天皇は、公的に一度主張しなかった神格放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇神聖な地位よりどころ日本神話神の子孫であるということを否定するつもりもなかった。実際、昭和天皇は自分神の子孫であることを否定した文章削除した。さらに、五箇条の御誓文追加して戦後民主主義日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言肯定的な意義盛り込んだ1977年昭和52年)の記者会見にて、昭和天皇は「神格放棄はあくまで二の次で、本来の目的日本民主主義外国から持ち込まれ概念ではないことを示すことだった」と述べた

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昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:45 UTC 版)

摩陀羅 天使篇」の記事における「昭和天皇」の解説

作中では1989年崩御せずに生き続けている。

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昭和天皇

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後藤田正晴」の記事における「昭和天皇」の解説

昭和天皇にご進講をすることが何度かあり、厳しく温かい叱責を受けることがあった。松子夫人一人園遊会出席したときには、昭和天皇自ら「後藤田長官大変だね」「長官によろしくね」と声がけした。昭和天皇の最初体調異変と言われる1987年誕生日祝宴での嘔吐にいち早く気づき松子夫人伝令役にして山本悟宮内庁次長事態伝えている。 後藤田は、昭和天皇が本当に自身判断したのは終戦最終決断御前会議におけるポツダム宣言受諾聖断)のみで、この決断も本来は総理大臣であった鈴木貫太郎が行うべきものであり、戦争責任について輔弼責任者追及すべきであったとしている。

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オクタゴニアン」の記事における「昭和天皇」の解説

日本の国土焦土にした責任をとるため、菊人自分身代わりとして裁かれるのを拒否し菊人罷免する

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昭和天皇

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大喪の礼」の記事における「昭和天皇」の解説

1989年昭和64年1月7日崩御した昭和天皇の大喪の礼は、同年平成元年2月24日内閣主催大喪の礼委員会委員長:竹下登内閣総理大臣竹下改造内閣〉)により行われた。 「大喪の礼」は、当日午前9時35分に昭和天皇の霊柩乗せた轜車(じしゃ。霊柩車)を中心として組まれ葬列(車30台、サイドカー30台の車列全長800m)が、宮内庁楽部による雅楽『宗明楽』と陸上自衛隊第1特科連隊による21発の弔砲送られて、の降る皇居正門出発することに始まった出発前には、皇室の儀式大喪儀」である「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」(じしゃはついんのぎ)が執り行われ出発をもって国の儀式である「大喪の礼」が開式された。 葬列葬送曲哀の極』が奏楽される中、桜田門通り沿道集まった20万人人々の間を進み国会議事堂正門前、憲政記念館前、三宅坂赤坂見附青山一丁目外苑前青山三丁目経て新宿御苑葬場総門まで到着した(この途中青山通り若年過激派の男2人が「天皇制反対」を唱えて車列中に突入したが、即刻警備員補導されている)。到着後、昭和天皇の霊柩轜車から輦(そうかれん天皇用い屋上ネギ坊主)形の吉祥飾り着けた輿)に遷され、鈍色衣冠単という古式装束着け皇宮護衛官が「輿丁」としてこれを担ぐ徒歩列が組まれた。徒歩列は雅楽奏される中、白木造り葬場殿入り、霊輦(霊柩納められ輦)が安置された。 ここで、幔門(門に見立てられ黒一色幔幕)が閉じられ鳥居などが設置され、国の儀式である「大喪の礼」から皇室の儀式である「大喪儀」が執り行われ、「斂葬の儀」(埋葬当日儀式)のうち「葬場殿の儀」が執り行われることとなった。「葬場殿の儀」では、奠饌幣(幣帛奉じる神道儀礼)や天皇明仁当時)の拝礼と「御誄」(おんるい、弔辞)の奏上皇后美智子当時)を始めとする皇族親族拝礼厳かに営まれた。 明仁謹んで 御父昭和天皇の御霊申し上げます崩御あそばされてより、哀痛尽きことなく温容まのあたり在ってひととき忘れることができません。 櫬殿(しんでん)に、また殯宮ひんきゅう)におまつり申し上げ霊前にぬかずいて涙すること四十余日無常時は流れて、はや斂葬の日を迎え轜車にしたがって、今ここにまいりました顧みれば、さきに御病あつくなられるや、御平癒を祈るあまたの人々真心が国の内外から寄せられました。今また葬儀にあたり、国内各界の代表はもとより世界各国国際機関代表する人々集いおわかれかなしみを共にいたしております皇位に在られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と平和を祈念され、未曾有昭和激動の時代を、国民苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます。 こよなく慈しまれた山川に、草木に、春の色はようやくかえろうとするこのとき、空しく幽明隔てて、今を思い、昔をしのび、追慕の情はいよいよ切なるものがあります誠にかなしみ極みであります。 — 御誄(おんるい) 斂葬の儀 葬場殿の儀 「葬場殿の儀」が営まれた後、再び幔門が閉じられ鳥居等が外され内閣官房長官小渕恵三竹下改造内閣)が「大喪の礼御式を挙行いたします。」と開式告げることで国の儀式である「大喪の礼」は始められた。次いで天皇明仁皇后美智子いずれも当時)が葬場殿前に進み正午から1分間黙祷が行われた。黙祷の後、内閣総理大臣竹下登衆議院議長原健三郎及び参議院議長土屋義彦最高裁判所長官矢口洪一といった三権の長拝礼の上弔辞述べ参列した諸外国元首弔問使節拝礼参列者の一斉拝礼が行われ、葬場殿における「大喪の礼」は終了したその後午後1時40分から、再び葬列組み四谷四丁目新宿三丁目新宿四丁目首都高速道路4号新宿線初台出入口中央自動車道八王子インターチェンジ経て午後3時15分に、陵所が置かれる武蔵陵墓地着いた。陵所では再び徒歩列が組まれて、皇室の儀式として「陵所の儀」が営まれ、昭和天皇の霊柩が陵に納められた。この陵は、武蔵野陵名付けられた。 「大喪の礼」の当日は、公休日となった平成元年法律第4号「昭和天皇の大喪の礼行われる日休日とする法律」)。なお、都心雨天であった各地では弔旗半旗掲揚されたほか、全国テレビ・ラジオ放送NHK教育テレビNHK衛星第1テレビNHKラジオ第二を除く)も報道特別番組編成され民間企業CM自粛され、公共広告機構(現:ACジャパン)のCM差し替えられた。また、多く公共施設休館となり、多くデパート映画館なども休業したフジテレビドキュメンタリー番組世界日本を見つめた日』では、当日報道特集放送した。この日の全日帯での総世帯視聴率HUD)は、あさま山荘事件強行突入が行われた1972年2月28日匹敵する62.8%に達した。 「大喪の礼」には、世界各国から国家元首使節大使等164か国(EC委員会を含む)・27機関700人に及ぶ人々参列し弔問外交行われたとされる。また国内からは、皇族三権の長とその配偶者国会議員衆議院議員及び参議院議員)とその配偶者幹部公務員都道府県知事各界代表者等が参列した参列者の範囲平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼細目関する件』による)。 主な国及び国際機関の代表参列国旗1989年当時のもの。また、諸外国及び国際機関の代表参列者の一覧は『外交青書』(1989年版)に掲載されている。世界中王室参列したが、オランダ王室だけは欠席したUAEムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下ラーシド外務担当国務大臣アル・マカーミ大使 南イエメンモサンナー通信運輸大臣ハイサム外務省儀典次長 イスラエルハイム・ヘルツォーグ大統領 イラクターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ副大統領ザハウィ上級外務次官アル・リファーイ大使及び夫人 イランミールサリーム(ペルシア語版、英語版副大統領ハランディ(ペルシア語版、英語版国会議員農業委員長)アデリ大使及び夫人 インドラーマスワーミ・ヴェンカタラマン大統領 インドネシアスハルト大統領 オマーンスワイニ国王代理殿下 韓国姜英勲国務総理東元外務次官李源京大使 民主カンボジア連合政府ノロドム・ラナリット王子 クウェートオサイミ外務担当国務大臣レズーキ外務省国際機関局長代行アル・シャーリフ大使及び夫人 サウジアラビアアブドゥラアジズ皇太子 シンガポールリー・クアンユー(李光耀首相 スリランカジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ前大統領 タイワチラーロンコーン皇太子チャートチャーイ・チュンハワン首相 中国銭其琛国家主席特使(外相)徐敦信外交部アジア司長楊振亜大使 トルコトゥルグト・オザル首相 ネパールギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ王子 パキスタンベーナズィール・ブットー首相 バーレーンアリ殿下首長名代) バングラデシュフセイン・モハンマド・エルシャド大統領 フィリピンコラソン・アキノ大統領 ブータンジグミ・シンゲ・ワンチュク国王ツェリン外務大臣レト大使 ブルネイハサナル・ボルキア国王 ベトナムダオ国家評議会副議長兼国会議長 モルディブマウムーン・アブドル・ガユーム大統領 ヨルダンフセイン1世国王ザイド・ビン・シャーケル殿下王宮長官)マダーダハ大使及び夫人 EC委員会アンドリーセン副委員長ワインマーレン副委員長官房長ファン・アフト大使 バチカンローマ教皇庁オッディ枢機卿カルー大使 スペインフアン・カルロス1世国王ソフィア王妃サパテロ国会関係首相府官房担当大臣バルシア大使 スウェーデンカール16グスタフ国王シルヴィア王妃フェルト大蔵大臣ヘイマン大使 オランダファン・デン・ブルック外務大臣ポストゥムス・メイエス大使及び夫人 ベルギーボードゥアン1世国王アラゴン王ティンデマンス外務大臣 デンマークヘンリク王配シモンセン大蔵大臣アナセン大使 リヒテンシュタインハンス・アダム皇太子 ノルウェーハーラル皇太子 ルクセンブルクジャン大公 ハンガリーブルーノ・ストラウブ国民議会幹部会議長 イギリスエディンバラ公フィリップダグラス・ハード外務大臣 フランスフランソワ・ミッテラン大統領ローラン・デュマ外務大臣ドゥコー外務大臣仏語圏国際文化交流担当大臣ドラン大使 フィンランドマウノ・コイヴィスト大統領 ドイツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領ゲンシャー副首相外務大臣ブレヒ大統領府長官ハリーヤ大使 ドイツ民主共和国ゲアラハ国家評議会副議長ニーア外務次官シュミット大使 アイスランドヴィグディス・フィンボガドゥティル大統領 アイルランドパトリック・ヒラリー大統領 イタリアフランチェスコ・コッシガ大統領 ポルトガルマリオ・ソアレス大統領 ソビエト連邦アナトリー・ルキヤノフ最高会議幹部会第一副議長 ポーランドバルチコフスキ国家評議会副議長 ルーマニアマネスク国家評議会副議長 モナコアルベール皇太子 アルバニアパパヨルギ大使 エジプトホスニー・ムバーラク大統領ブトロス・ガーリ外務担当国務大臣エルメニアウィ大使及び夫人 ケニアダニエル・アラップ・モイ大統領 ナイジェリアイブラヒム・ババンギダ大統領 トーゴニャシンベ・エヤデマ大統領 ザイールモブツ・セセ・セコ大統領 ザンビアケネス・カウンダ大統領 ガンビアダウダ・ジャワラ大統領 ブルンジ ピエール・ブヨヤ大統領 南アフリカ共和国クーン総領事 アンゴラヴァン・ドゥーネン外務大臣ハレー外務省アジア太洋局長 アルジェリアビタット国民議会議長ベントゥーネ国民議会議員ゼルーニ大使 モロッコシディ・モハメッド皇太子 アメリカ合衆国ジョージ・H・W・ブッシュ大統領バーバラ大統領夫人ジェイムズ・ベイカー国務長官スヌヌ首席補佐官ブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官アンダーソン臨時代理大使 カナダソヴェー総督 キューバフェルナンデス閣僚会議副議長教育大臣 ブラジルジョゼ・サルネイ大統領ソドレー外務大臣ツヅキ衛生大臣ブエノ大使 アルゼンチンマルティネス副大統領デ・ラ・グァルディア政策担当外務次官ロス大使 チリエラスリス外務大臣シルヴァ外務大臣秘書官ポンセ大使 オーストラリアジョージ・ハイドン総督ダフィー貿易交渉大臣ミラー大使 ニュージーランドポール・リーブス総督マーシャル外務大臣太平洋島嶼国問題大臣ゲイツ大使 トンガタウファアハウ・ツポウ4世国王 フィジーペナイア・ガニラウ大統領コロヴァヴァラ侍従武官ウォーカー大使 西サモアマリエトア・タヌマフィリ2世大首長 マーシャル諸島キジナー外務大臣 国際連合ハビエル・ペレス・デ・クエヤル事務総長明石康事務次長 アジア開発銀行藤岡眞佐夫総裁 国際連合 食糧農業機関プーリ・アジア太平洋地域事務所長(事務局長補) 関税および貿易に関する一般協定ダンケル事務局長 国際連合 国際復興開発銀行コナブル総裁 赤十字国際委員会キュング東アジア地域首席代表 米州開発銀行デ・アンドレア理事ペルーコロンビア担当国際農業開発基金ブラウン副総裁 国際労働機関中村事務局長国際連合 国際通貨基金カムドゥシュ専務理事 国際連合 国際電気通信連合ジプゲップ事務総局次長 経済協力開発機構ペイユ事務総長 国際連合 開発計画ドレーパー事務局長 教育科学文化機関ユネスコ)ヤケール事務局長特別顧問 国際連合 工業開発機関シアソン事務局長 世界保健機関中嶋宏事務局長 世界気象機関ホー・アジア南西太平洋地域担当部長 国際連合 大学グルグリーノ学長

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「昭和天皇」を含む「大喪の礼」の記事については、「大喪の礼」の概要を参照ください。


昭和天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 16:48 UTC 版)

GHQ草案手交時の脅迫問題」の記事における「昭和天皇」の解説

1946年2月13日日本側に手交されたGHQ草案は、日本側により3月2日案として起草された。起草責任者は、皮肉にも松本であった3月2日案は、3月4-5日の「徹宵交渉」を経て3月5日閣議決定された(3月5日案)。閣議決定後、幣原首相松本参内し、昭和天皇に事の経緯奏上した。松本奏上様子侍従次長木下道雄次のように記している。 3月5日(火) 半晴夕刻幣原首相松本国相拝謁同時に内閣木内副書官長来室勅語案を持参す。事重大なり。よって、直ちに大臣次官登庁求め7時両人来室。更に退出の両大臣来室求め、事の詳細聞く。(略)始め11日までに松本私案出せばよいことになっていたが、かくなってはそれ迄待てぬ。米国側の造った原案採用するか、しからざればEmperorperson保障できない云う強談判松本国相大い困り、やっとの事で一院制二院制改め得た訳。そしてかかる民定のものを勅語なくしてはどうしても出せぬという訳で勅語願った次第なり。(略) — 木下道雄側近日誌』より 「日本政府カ此ノ如キ憲法改正提示スルコトハ右ノ目的達成ノ為必要ナリ之ナクシテハ天皇身体パーソンオブ、ゼ、エンペラー)ノ保障ヲ為スコト能ハス」という松本手記どおりのことを、松本は昭和天皇に奏上した。史実としては、マッカーサーはこの奏上の1カ月以上も以前1946年1月25日に、昭和天皇を戦犯裁判出さない決意固めアイゼンハワー陸軍参謀総長天皇戦争犯罪該当する証拠が見つからなかったとして、天皇戦犯として追訴すべきではないと電報送っている。しかし、昭和天皇周辺がその情報接するのは次の通り3月20日のことで、3月5日のこの時点ではそのこと知らなかった1946年3月20日寺崎英成御用掛は、マッカーサー天皇退位望んでいるか否かその真意知りたい、とフェラーズ大佐マッカーサー軍事秘書)に聞き情報初めもたらされた。 所謂「御退位論」に関する件3月20日木下侍従次長より所謂退位関する「マックアーサー元帥真意探り得ざるやとの御話あり。 たまたま同日夜「フェラーズ大佐妻子と共に晩餐招待せられおりたるをもって同席の「グリーン大佐スケンク中佐帰還後、右に関しフェ」に問い質したるが、次の如き回答得たり。(寺崎質問省略) 「フェ」 余も率直に答え致すべし。「マ」元帥陛下親友なり。御退位に付て、自分元帥論議したること無きも、天皇戦犯とする考え方対し極東委員会参加国にありと付言せり)元帥反対意思表明し天皇にして戦犯指名せられんか、日本混乱に陥り、占領軍の数は多量に増強せらるるを要すべしと華府報告したることあるを自分承知す。御退位場合には、誰が後継者となるかに付き種々困難な問題生ずべく、戦犯場合同じく日本混乱陥るべし。叙上理由により『マ』元帥陛下後退位を希望せずと信ず。 — 所謂「御退位」に関する件 木下道雄側近日誌』より

※この「昭和天皇」の解説は、「GHQ草案手交時の脅迫問題」の解説の一部です。
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