ニクソン大統領の中国訪問
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ニクソン大統領の中国訪問(ニクソンだいとうりょうのちゅうごくほうもん)は、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東中国共産党主席や周恩来国務院総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となった訪問である。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソン中国に行く」という政治用語も生まれた[1]。
注釈
- ^ 1969年4月に開催した中国共産党第九回全国大会(九全大会)で、ようやく国内の混乱が収束する方向へ動き始めていた。
- ^ この1967年という年はベトナム戦争が激しさを増していると同時に中国では文化大革命が激しく揺れ動いていた時期である。
- ^ ニクソンが大統領に当選した頃に毛沢東と周恩来はこの「フォーリン・アフェアーズ」に掲載したニクソンの論文を詳しく検討するように事務方に指示している[5]。
- ^ この時期にソ連は他の共産国の指導者に中国の核施設への先制攻撃に対してどのような態度を取るか、という打診を行っていた。またこれより前の3月に衝突事件が起こった直後にキッシンジャーのオフィスにドブルイニンソ連大使がやって来て状況説明をしている。これは当時としては前代未聞の異例なことであった。
- ^ この言葉は、後にニクソン・周恩来の会談に同席した首相秘書の熊向暉が書いた書物の題名になっている。
- ^ 『キッシンジャー回想録』では毛沢東が指示したことになっているが、『周恩来秘録』では周恩来が発案して毛の承諾を得たことになっている。そして周は陳毅に説明する時に「もとの見方や結論に縛られることがあってはならない」「戦略的視点を持って毛主席が戦略動向を把握するための助けとなって中央に提案できる」と述べた[7]。
- ^ この米中対話の再開については「キッシンジャー回想録」では2月20日と3月20日になっている。しかも再開して2回目の2月20日に中国側が「もし米国が特使を派遣したいということなら接待したい」と述べていると中国側記録にはあるが、キッシンジャー回想録には記述されていない。
- ^ このあたりの経過は「周恩来秘録」では1970年1月20日と2月20日に大使級会談を行ったと記されているが、後述のパキスタン・ルーマニア経由のメッセージのやり取りが無く、「周恩来秘録」ではこの大使級会談で代表派遣の提案と北京でのハイレベルでの会談の実施を口頭で同意したと記している[16]。
- ^ 「キッシンジャー回想録」では1970年7月と記しているが「ニクソンとキッシンジャー」では1969年と記している。正確には1969年である[17]。
- ^ この会議で林彪支持派の陳伯達政治局員が毛沢東から批判されて、林彪の足元が揺らぎ、党内が混乱に陥った[19]。
- ^ 毛沢東はこの時点で米国のヴェトナムからの撤退が本物と見ており、それがソ連の脅威を強めていると判断していた。またこれには人民解放軍の中に対ソ戦略として米国カードを使うことを支持するグループがあった[20]。
- ^ この2つの動きは毛沢東にいい印象を与え、そして4月の世界卓球選手権大会でのアメリカ選手団を受け入れることに結論を出す要因ともなった。
- ^ 1959年7月に始まったモスクワでの米国博覧会の開会式に当時のニクソン副大統領が出席して、その直後フルシチョフ首相と会場を一緒に廻り、展示されていた「モデル台所」の前で、米ソどちらが魅力的な生活様式を提示しているかで言い争った[28]。
- ^ 1964年と1968年に共和党大統領選挙の予備選挙に立候補したが途中で退いた。後にニクソンがウォーターゲート事件で辞任の後に昇格したフォード大統領の指名で副大統領に就任した。
- ^ この時はキッシンジャーの下での補佐であったが、後に1973年ウォーターゲート事件で首席補佐官であったハルデマンが辞職に追い込まれて、後任としてニクソン政権の最後の時期を首席補佐官として難局に当たりニクソン辞任からフォード昇格までのホワイトハウスを取り仕切った。後に1981年レーガン政権で国務長官を務めた。
- ^ この当時、中華人民共和国は51年に結ばれた日米安保条約を日米共同で中国を敵視するものとして絶対反対の立場であった。
- ^ この1か月後にニクソン大統領は経済政策で金とドルの交換を停止する政策を発表して再び世界を驚かせた。これは当時ドルショックと言われたが、後にこれもニクソンショックと言われて、訪中発表は今日では第1次或いは政治面でのニクソンショックと呼ばれている。
- ^ エドウイン・ライシャワー大使の後任として1966~1968年まで駐日大使を務め、ニクソン政権発足と同時に国務省の政治担当国務次官として、ロジャーズ国務長官を支えた。
- ^ 佐藤首相はこの日の日記に「発表の2時間前」と記している。この日、佐藤首相は記者に「なかなかやるものだ」と述べているが、日記には「北京が条件をつけないで訪支を許したことは意外」として「これから台湾の処遇が問題で一層むつかしくなる」と記している[43]。
- ^ この時に日本にいたマイヤー駐日大使でさえ連絡は届いていなかった。こうした国務省内の混乱は、もともとあったロジャーズ国務長官とキッシンジャー補佐官との確執を深め、やがて訪中後の米中コミュニケの発表前に爆発することとなった。
- ^ 1957~1963年に駐米大使を務めた。
- ^ アメリカ側の公式訪中メンバーは15名で、ニクソン夫妻とキッシンジャー以外では、ロジャーズ(国務長官)、ハルデマン(首席補佐官)、ジーグラー(報道官)、スコウクロフト(大統領武官)、グリーン(国務次官補)、チェイピン(補佐官代理)、ジェンキンズ(国務省東アジア部長)、ホルドリッジ(国家安全保障会議スタッフ)、ロード(国家安全保障会議スタッフ)などであった。
- ^ この時に出迎えたのは、周恩来、李先念(副首相)、葉剣英、郭沫若(全人代副委員長)、姫鵬飛外交部長、喬冠華外交部副部長、呉徳(北京市革命委員会副主任)らであった。四元帥の1人で外交部長であった陳毅はこのニクソン訪中の直前に亡くなっている。
- ^ この周恩来との握手は別な意味もニクソンは込めていた。1954年のジュネーヴ会議で出席していた当時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスが同じく出席していた周恩来から握手を求められて、周が手を伸ばしたにもかかわらず払いのけるようにして断った。このことを前年7月の極秘訪中の時の会談で周恩来からキッシンジャーが聞いて、ニクソンは外交上の無礼な振る舞いであったとして、後のニクソン回顧録で「タラップを降りて周恩来の方に歩み寄り自ら進んで手を差し出した。二人の手が合わさった時、1つの時代が終わり、もう1つの時代が始まった」と述べている[47]。
- ^ この7か月後の日中国交正常化交渉で訪中した田中角栄首相の場合は、滞在3日目に毛沢東との会談がセットされた。
- ^ ニクソン大統領の娘もこの日ボストンで早朝6時からの晩餐会生中継を見ていた。そして首相の乾杯の発声を聴いてとても感動したと翌日に大統領との電話で話していた。ニクソンはそれを翌日の首脳会談の冒頭に昨夜の晩餐会の御礼を述べる時に語っている[49]。
- ^ 就任後意表をついてルーマニアを共産圏諸国では最初に訪問したニクソンであったが、この1年前まで、ニクソンがいつ共産国のソ連を訪問するかということが話題にはなっていた。しかし1年前の時点ではソ連の首脳陣よりも先に中華人民共和国を訪問することは誰も想像出来ないことであった。
出典
- ^ Naím, Moisés (September 1, 2003). "Berlusconi Goes to China". Foreign Policy.
- ^ 『周恩来秘録』下巻、p.119
- ^ a b 毛里和子「解説」『ニクソン訪中機密会談録』、p.259
- ^ 「世界歴史大系・アメリカ史2-1877年~1992年-」p.429
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」85P 大嶽英夫著 2013年12月発行 中央公論新社
- ^ 『キッシンジャー回想録 中国(上)』第8章 和解への道 p.226
- ^ 『周恩来秘録』下巻 pp.125 - 126
- ^ 『キッシンジャー回想録 中国(上)』第8章 和解への道 p.225
- ^ 『キッシンジャー回想録 中国(上)』第8章 和解への道、p.228
- ^ 『キッシンジャー回想録 中国(上)』第8章 和解への道、p.228P(該当箇所は胡鞍鋼『毛沢東と文革』からの引用)
- ^ 『周恩来秘録』下巻 p.126
- ^ 『キッシンジャー回想録 中国(上)』第8章 和解への道、p.227
- ^ 『周恩来秘録』下巻、p.126
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 230P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 234P
- ^ 「周恩来秘録」下巻 132~135P
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」91P 参照
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 pp.241-247
- ^ 「周恩来・キッシンジャー機密会談録」348P 解説 毛里和子 参照
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」96P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 249P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 250P
- ^ 「アメリカ20世紀史」263P
- ^ 「周恩来秘録」下巻 144P
- ^ 「周恩来秘録」下巻 145P
- ^ a b 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 251P
- ^ 「周恩来・キッシンジャー機密会談録」348P 解説 毛里和子
- ^ 「戦後アメリカ外交史」95P
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」6~7P
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」8P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第9章 関係の再開 256P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第9章 関係の再開 256~258P
- ^ 「周恩来・キッシジャー機密会談録」3P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第9章 関係の再開 265P
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」 97P
- ^ 「周恩来・キッシジャー機密会談録」3P
- ^ 「周恩来・キッシジャー機密会談録」346P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」 第9章 関係の再開268~270P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第9章 関係の再開 274~276P
- ^ 「周恩来秘録」下巻 148P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第9章 関係の再開 275P
- ^ 「キッシンジャー回想録 中国(上)」第9章 関係の再開 261P
- ^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 50~51P参照
- ^ 「日米関係は何だったのか」399P
- ^ 「日米関係は何だったのか」393P
- ^ 「ニクソンとキッシンジャー」101P
- ^ 「ニクソン回顧録①栄光の日々」326P 松尾文夫・斉田一路訳 1978年発行 小学館
- ^ William Burr, The Kissinger Transcripts: The Top Secret Talks withBeijing and Moscow (New York: The New Press, 1999), 59-65.
- ^ a b 「ニクソン訪中機密会談録」 35P
- ^ 「ニクソン訪中機密会談録」252P 解説 毛里和子
- ^ 毛里和子「解説」『ニクソン訪中機密会談録』pp.276 - 280
- ^ a b 『アメリカ20世紀史』pp.265 - 266
- ^ 「アメリカ20世紀史」 266P
- ^ 「戦後アメリカ外交史」136P
- ^ 「戦後アメリカ外交史」138P
- ^ Ford Visits China - 1975 Year in Review - Audio - UPI.com
- ^ 稲垣武『「悪魔祓(あくまばら)い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』 第21章 PHP研究所、2015年2月、ISBN 978-4-569-82384-3
- 1 ニクソン大統領の中国訪問とは
- 2 ニクソン大統領の中国訪問の概要
- 3 脚注
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