批林批孔運動とは? わかりやすく解説

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批林批孔運動


批林批孔運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 16:18 UTC 版)

“批孔”に関する古書。

「批林批孔運動」は、1974年1月18日から6月にかけて、中国共産党中央委員会主席の毛沢東の承認を受けて文化大革命の中で発動された、中国共産党中央委員会副主席(序列第1位)の林彪孔子の2人を批判の主題とする政治運動である。

経過

林彪は、国家主席の設置を主張したことにより毛沢東と決裂し、のちに1971年9月13日の九一三事件で死亡した。

1973年7月4日、毛沢東はこう指摘した。「孔子を尊び、を退ける──国民党も同じだ。林彪もそうだ!」「秦始皇は中国封建社会における最初の有名な皇帝である。私は秦始皇でもある。林彪は私を秦始皇と罵った。中国は昔から二つの派に分かれている──一方は秦始皇を良しとし、もう一方は悪しとする。私は秦始皇を支持し、孔夫子(孔子)を支持しない。」[1] また毛沢東は、郭沫若の『十批判書』に対して異議を唱える詩を作り、これを「四人組」が「儒法闘争」として政治的に格上げした。

1974年1月18日、毛沢東は夫人の江青および中国共産党中央委員会副主席(序列第2位)の王洪文の要請を承認し、江青が主宰して編纂した《林彪と孔孟の道》を転送した。これにより「批林批孔運動」が開始された。この運動は名目上は思想運動であったが、実際には政治的意図を強く含むものであった。江青は「批林」「批孔」というスローガンに続けて「批『周公』」を付け加え、さらに「(中共)第11次路線闘争」という提法を唱えた(のちに毛沢東によって否定された)。その意図は、運動の矛先を周恩来への批判へと向けることであった。 同時期に、姚文元や江青らは「『黒画』批判運動」を発動し、その矛先もまた周恩来に向けられた。[2][3]

1974年7月1日、運動が社会の生産力に悪影響を及ぼしたため、中国共産党中央は《革命をつかみ、生産を促進することに関する通知》を発した。この通知の公布以後、各地で展開されていた「批林批孔」大衆運動はほぼ沈静化した。だが、全国的には毛沢東が主導した「無産階級文化大革命」そのものに対する疑念が、ますます広く、そして深く浸透しており、容易には収まらなかった。その後も社会生産の低迷と国民生活の困窮が続くなか、毛沢東は「文化大革命」を維持するために「批鄧、右傾翻案風への反撃」などの運動を次々と発動したが、疲弊した民衆からは嫌悪と消極的な反応しか得られなかった。最終的に、これらの運動は毛沢東の死によって終息した。

出典

  1. ^ 《1973年7月4日 毛泽东:劝君莫骂秦始皇》、《“批林批孔”运动》,中国共产党新闻网,检索日期2009年11月12日 アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン アーカイブ 2019年5月20日 - ウェイバックマシン
  2. ^ 李辉 (2010年). “1974年“黑画事件”真相”. 中国传记文学学会. 《炎黄世界》. 2022年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブTemplate:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  3. ^ 文革“黑画事件”始末:黄永玉与猫头鹰(图)”. 凤凰网. 《中国文化报》 (2008年8月27日). 2019年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブTemplate:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。

批林批孔運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:24 UTC 版)

「文化大革命」記事における「批林批孔運動」の解説

マルクス主義無神論掲げ中華人民共和国は、「儒教革命対す反動である」として儒教弾圧対象とした。特に1973年8月から1976年まで「批林批孔運動」を行い林彪孔子及び儒教否定し徹底的に罵倒した多く学者海外逃れ中国に留まった熊十力激し迫害を受け自殺したといわれる儒教思想が、社会主義共和制根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在捉えられていたためとされる中国思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子極悪非道人間とされ、その教え封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」としたのであるこうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観基づいて中国の歴史人物の再評価行われ、以下のように善悪分けた(以下には竹内実現代中国における古典再評価とその流れ』により主要人物挙げる)。 善人 少正卯呉起商鞅韓非荀況李斯秦の始皇帝前漢高祖文帝景帝曹操諸葛亮武則天王安石李贄李卓吾)、毛沢東ら。 悪人 孔子孟子司馬光朱熹ら。 この運動は、後に判明したところによれば、孔子なぞらえて周恩来引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみ行われたものであり、学者多数孔子批判行ったが、主張学問的価値乏しく日本学界で否定的な意見強く同調したのはわずかな学者とどまった武則天善人中に入っているのは江青が自らを武則天なぞらえ女帝として毛沢東後継者たらんとしていたからだといわれる。なお、毛沢東三国志愛読し曹操とりわけ好んだといわれるが、曹操三国時代当時官僚化していた儒者および儒教痛烈に批判している。王安石李贄善人側に入っているのは、儒者ありながら儒教に対して改革的または批判的に臨んだ為である。 小説家司馬遼太郎が行った現地リポートによれば子供孔子ゴム人形鉄砲で撃たせたりもしていたという。 幼少の頃文化大革命遭遇し、後に日本帰化した石平は、「この結果中国では論語の心や儒教精神無残に破壊され世界屈指の拝金主義跋扈するようになった」と批判

※この「批林批孔運動」の解説は、「文化大革命」の解説の一部です。
「批林批孔運動」を含む「文化大革命」の記事については、「文化大革命」の概要を参照ください。

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