批林批孔運動
批林批孔運動
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「批林批孔運動」は、1974年1月18日から6月にかけて、中国共産党中央委員会主席の毛沢東の承認を受けて文化大革命の中で発動された、中国共産党中央委員会副主席(序列第1位)の林彪と孔子の2人を批判の主題とする政治運動である。
経過
林彪は、国家主席の設置を主張したことにより毛沢東と決裂し、のちに1971年9月13日の九一三事件で死亡した。
1973年7月4日、毛沢東はこう指摘した。「孔子を尊び、法を退ける──国民党も同じだ。林彪もそうだ!」「秦始皇は中国封建社会における最初の有名な皇帝である。私は秦始皇でもある。林彪は私を秦始皇と罵った。中国は昔から二つの派に分かれている──一方は秦始皇を良しとし、もう一方は悪しとする。私は秦始皇を支持し、孔夫子(孔子)を支持しない。」[1] また毛沢東は、郭沫若の『十批判書』に対して異議を唱える詩を作り、これを「四人組」が「儒法闘争」として政治的に格上げした。
1974年1月18日、毛沢東は夫人の江青および中国共産党中央委員会副主席(序列第2位)の王洪文の要請を承認し、江青が主宰して編纂した《林彪と孔孟の道》を転送した。これにより「批林批孔運動」が開始された。この運動は名目上は思想運動であったが、実際には政治的意図を強く含むものであった。江青は「批林」「批孔」というスローガンに続けて「批『周公』」を付け加え、さらに「(中共)第11次路線闘争」という提法を唱えた(のちに毛沢東によって否定された)。その意図は、運動の矛先を周恩来への批判へと向けることであった。 同時期に、姚文元や江青らは「『黒画』批判運動」を発動し、その矛先もまた周恩来に向けられた。[2][3]。
1974年7月1日、運動が社会の生産力に悪影響を及ぼしたため、中国共産党中央は《革命をつかみ、生産を促進することに関する通知》を発した。この通知の公布以後、各地で展開されていた「批林批孔」大衆運動はほぼ沈静化した。だが、全国的には毛沢東が主導した「無産階級文化大革命」そのものに対する疑念が、ますます広く、そして深く浸透しており、容易には収まらなかった。その後も社会生産の低迷と国民生活の困窮が続くなか、毛沢東は「文化大革命」を維持するために「批鄧、右傾翻案風への反撃」などの運動を次々と発動したが、疲弊した民衆からは嫌悪と消極的な反応しか得られなかった。最終的に、これらの運動は毛沢東の死によって終息した。
出典
- ^ 《1973年7月4日 毛泽东:劝君莫骂秦始皇》、《“批林批孔”运动》,中国共产党新闻网,检索日期2009年11月12日 アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン アーカイブ 2019年5月20日 - ウェイバックマシン。
- ^ 李辉 (2010年). “1974年“黑画事件”真相”. 中国传记文学学会. 《炎黄世界》. 2022年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “文革“黑画事件”始末:黄永玉与猫头鹰(图)”. 凤凰网. 《中国文化报》 (2008年8月27日). 2019年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
批林批孔運動
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マルクス主義的無神論を掲げる中華人民共和国は、「儒教は革命に対する反動である」として儒教を弾圧の対象とした。特に1973年8月から1976年まで「批林批孔運動」を行い、林彪と孔子及び儒教を否定し、徹底的に罵倒した。 多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」としたのである。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。 善人 少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。 悪人 孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。 この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者にとどまった。武則天が善人の中に入っているのは江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。なお、毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。王安石や李贄が善人側に入っているのは、儒者でありながら、儒教に対して改革的または批判的に臨んだ為である。 小説家の司馬遼太郎が行った現地リポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。 幼少の頃に文化大革命に遭遇し、後に日本に帰化した石平は、「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と批判。
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