1970年代前半
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1971年 3月、学内の混乱の収束が進む中、出席日数が足りなかった達郎は卒業が危ぶまれたが、追い出されるように高校を卒業した。その後は、音楽にのめり込む日々が始まる。そうは言っても、「裏方ぐらいにしかなれないだろうし、ならば、せめて音楽著作権でも学んで音楽出版社にでも入ろうか」と考えた達郎は、法学部受験を目指して予備校に入学し、1年間の浪人生活を送る事になった。しかし実際にはほとんど通っていなかった。 1972年 4月、明治大学法学部へ入学。しかし講義にもほとんど出席しないまま、3か月で中退した。 8月、アマチュアバンドの友人達とアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を自主制作する。この中には、後にシュガー・ベイブのメンバーとなる村松邦男と鰐川己久雄がいた。 1973年 春、『ADD SOME〜』がきっかけで知り合った仲間(大貫妙子、野口明彦)に、村松、鰐川を加え、シュガー・ベイブを結成。 9月21日、文京公会堂でのはっぴいえんどラスト・コンサート“CITY -Last Time Around-”に大滝詠一 &ココナツ・バンクのステージに、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がバック・コーラスで参加。 12月17日、シュガー・ベイブのデビューコンサート“Hello! We are SUGAR BABE”を青山タワーホールにて開催。 1974年 1月、音楽事務所と契約するも、給料をもらえず、経済的に困窮する。しかし、この頃から始めたCM音楽の仕事や、スタジオでのコーラス・ワークの活動を通じて、達郎の声は少しずつ認知されていく。シュガーベイブも学園祭やライブハウス等の場で、次第に知名度を増していく。 10月、シュガー・ベイブの所属レコード会社が大瀧のナイアガラ・レーベルに決定し、レコーディングを開始する。 10月5日、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がコーラスで参加した荒井由実のアルバム『MISSLIM』をリリースする。達郎はコーラスの他、一部の曲ではギタリストとして参加。荒井(松任谷)の作品にはソロになって以降も、『OLIVE』(1979年)まで関わっている。
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1970年代前半
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「ヴイックス メディケイテッド ドロップ」の記事における「1970年代前半」の解説
ジャングルの中でターザンが綱渡りで滑り降りながら、大声で雄叫びをあげたり、森の中に雄叫びをあげている途中で声を嗄らしてしまう。途中で「喉は大事にしなくちゃ。のどにヴイックス、さわやかです」というナレーションが入る。キャッチコピーは「のどにさわやか、ヴイックス」だった。当時は丸い缶ケースに入っていた。
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1970年代前半
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「シンシナティ・レッズ」の記事における「1970年代前半」の解説
レッズが最も輝いたのは1970年代中盤の「ビッグレッドマシン(The Big Red Machine)」である。1970年にスパーキー・アンダーソン監督が就任。シーズン途中の6月30日リバーフロント・スタジアムが開場し、この年には102勝60敗という圧倒的な成績で地区優勝を果たした。リーグチャンピオンシップシリーズではピッツバーグ・パイレーツに3連勝し、5度目のリーグ優勝。しかし、ワールドシリーズではレッズから移籍したフランク・ロビンソンとブルックス・ロビンソンの「ロビンソン・コンビ」擁するボルチモア・オリオールズの前に1勝4敗で敗れ去った。 翌1971年は79勝83敗と負け越し、チームも4位に沈んでしまうが、シーズン途中にジョージ・フォスター、オフにはジョー・モーガンを獲得する。この2人を加えたことでレッズの陣容は更に厚みを増し、1972年には2度目の地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年に続きパイレーツとの対戦となり、互いに2勝をあげシリーズは最終戦まで持ち込まれた。この試合でレッズは9回裏まで2対3とリードされていたが、9回先頭打者のベンチの起死回生となる本塁打で同点。なおもチャンスとなり相手投手の暴投によってサヨナラ勝利を収めた。ワールドシリーズでは強打者レジー・ジャクソンを擁し「マスターシュ・ギャング」と呼ばれたオークランド・アスレチックスと対戦。第6戦を除いて全て1点差ゲームという大激戦のシリーズとなり、こちらも最終戦までもつれ込んだが、最終的に3勝4敗で敗れてしまった(アスレチックスはこの後ワールドシリーズ3連覇を果たす)。 1973年にはオールスター前まで、首位ロサンゼルス・ドジャース10.5ゲーム差をつけられていたが、この後に驚異的な追い上げを見せて地区2連覇を達成。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではニューヨーク・メッツに2勝3敗で敗れている。1974年は開幕戦でアトランタ・ブレーブスと対戦。折りしも全米でハンク・アーロンの本塁打記録が注目されており、この試合でルースと並ぶ714本目の本塁打を放っている。この年もレッズは変わらぬ強さを見せ98勝をあげるが、ドジャースがそれを上回る102勝をあげたため、地区優勝はならなかった。
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1970年代前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:46 UTC 版)
1970年、1971年 2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行の松田耕平が就任。 1972年 開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。 1973年 別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し、60勝67敗3分の最下位に終わる。しかし、リーグ優勝しV9を達成した巨人とのゲーム差はNPB史上最小の6.5ゲームにとどまる大混戦だった。 1974年 チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。 1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。
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1970年代前半
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ほとんどの車両が緑と黄色の標準塗装であった。ワンマン化時に入れられた白帯がそのままの車両も存在した。
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1970年代前半
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「日本における被死刑執行者の一覧」の記事における「1970年代前半」の解説
事件名(仮名または氏名)事件発生日一審判決二審判決最高裁判決執行日備考1970年(26人執行)ホテル日本閣殺人事件 (K・O) 1961年2月19日 不明 不明 1966年7月14日 1970年6月11日 両者とも東京拘置所で死刑執行。Kは戦後初めて、死刑を執行された女性死刑囚。 女性連続毒殺魔事件 (S) 1960年 不明 不明 1966年7月14日 1970年9月19日 戦後女性死刑囚執行第2号。 雅樹ちゃん誘拐殺人事件 (M) 1960年5月16日 1961年3月31日 1966年8月26日 1967年5月25日 1970年10月29日 誘拐直後にガス中毒死させた事件。戦後初の誘拐殺人事件の死刑判決。東京拘置所で死刑執行。 四国連続強盗殺人事件 (M) 1963年10月 不明 不明 1966年3月31日 1970年10月29日 短期間に6人を殺害。 西口彰事件(西口彰) 1963年-1964年 不明 不明 1966年 1970年12月11日 5人を殺害。 1971年(17人執行)吉展ちゃん誘拐殺人事件(小原保) 1963年3月31日 1966年3月17日 1966年11月29日 1967年10月13日 1971年12月23日 初めて報道協定が結ばれた事件。 1972年(7人執行)少年ライフル魔事件 (K) 1965年7月29日 1968年6月16日 1968年 1969年10月2日 1972年7月21日 銃乱射事件。一審は無期懲役。犯行時18歳、犠牲者は警官1人。 1974年(4人執行)日光中宮祠事件 (P・T) 1946年5月4日 1957年7月22日 1959年1月28日 1960年6月10日 1974年6月6日 在日韓国人による強盗放火殺人事件。当初、捜査機関が一家無理心中と誤認し、解決までに9年を要した。 仙台幼児誘拐殺人事件 (K) 1964年12月21日 1965年4月5日 1966年10月18日 1968年 1974年7月5日 一審は無期懲役。犯人は元俳優。
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1970年代前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 15:22 UTC 版)
ポール・マッカートニーがビートルズ脱退を表明する直前(1970年3月)に、スタンダード・ナンバーを集めた初のソロ・アルバム『センチメンタル・ジャーニー』を発表。これを機に、リンゴはソロ・ミュージシャンとしての活動を始動する。同年12月には2枚目のアルバム『カントリー・アルバム』もリリースしている。シングルでは、自作の「明日への願い」(イット・ドント・カム・イージー)を発表した。「明日への願い」と「バック・オフ・ブーガルー」は、ヒット・チャートを賑わした。ジョージ・ハリスンとの共作曲「想い出のフォトグラフ」や「ユア・シックスティーン」(ジョニー・バーネットの曲のカバー)は、全米チャートでナンバーワンを記録した。リンゴは1970年代前半にジョン、ポール、ジョージらビートルズの元メンバーと同様、コンスタントにシングル・ヒットを連発した。さらに1974年にプラターズのカバー「オンリー・ユー」、日本では「オー・マイ・マイ」がヒット。75年にはアメリカで「ノー・ノー・ソング」がヒットした。 シングルだけではなく、アルバムでも彼は成功を収めた。1973年発表の『リンゴ』は全米1位にランクイン。ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねた。ジョン・レノンやエルトン・ジョン、ニルソンなど、豪華な作家陣が楽曲を提供し、レコーディングにも参加した次作の『グッドナイト・ウィーン』も前作同様に大ヒット。ジョージが企画して行われた1971年の『バングラデシュ難民救済コンサート』も含め、1970年代前半のリンゴはさまざまな分野で大活躍した。
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