四国連続強盗殺人事件とは? わかりやすく解説

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四国連続強盗殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/03 09:52 UTC 版)

四国連続強盗殺人事件(しこくれんぞくごうとうさつじんじけん)とは、1963年昭和38年)10月2日から同月20日にかけて日本四国高知県徳島県香川県)で発生した連続殺人および大量殺人事件[1]。男Mが同年10月14日に徳島県三好郡池田町ウエマツ(現:三好市池田町ウエマツ)の浄水場管理人宅で一家6人を襲い、うち5人を殺害する事件など5事件を起こし、6人を殺害、4人を負傷させた[1]

犯人Mは戦時住居侵入罪などで無期懲役に処され、恩赦減刑を経て仮釈放された後にも強盗窃盗事件を起こしていた[1]。Mは1963年9月25日に再び仮釈放されたが、服役中に得た約4万円の作業賞与金をすぐに遣い果たした末に相次いで強盗殺人などの犯罪を犯し[1]、同年10月22日に愛媛県川之江市(現:四国中央市)の山中で逮捕された[2]。一連の事件は四国4県民を恐怖に陥れたものと評されており[1]四国の鬼熊[3]とも呼ばれる。Mは1966年(昭和41年)に刑事裁判死刑判決確定[4]、1970年(昭和45年)に死刑を執行されている

犯人歴

犯人Mは現在の高知県長岡郡大豊町1921年に生まれ、義務教育を終えると各地の飯場で作業員として働いていたが、20歳の時に「規則正しい生活は嫌だ」という動機から、当時大日本帝国憲法で国民の義務とされていた徴兵検査を受けず逃亡した。しかし当時の日本第二次世界大戦太平洋戦争)の最中であり、時局柄許されない状況であった。そのため懲罰覚悟で出頭し兵役に就く事になった。1944年2月高知県第44連隊に入営したが、部隊内のいじめに耐え切れなくなり部隊を脱走し軍法会議にかけられた。軍法会議の最中にMは拘禁先で看守を負傷させ脱獄を図ったため、殺人未遂無期懲役判決を受け、終戦広島刑務所で迎えた。

その後、Mは恩赦により減刑され1956年6月仮出獄したがギャンブルにはまり、強盗や窃盗を繰り返し刑務所送りとなり、高松刑務所を仮出獄したのは1963年9月25日であった。

事件の概要

Mは出所後実家に戻っていたが、仮出獄2日目にぶらりと実家を当てもなく出て行き、強盗殺人を連続して引き起こす事になった。まず10月2日に高知県中村市(現在の四万十市)で食料品店を物色し家人を刺して重傷を負わせ逃亡10月9日に高知県高岡郡中土佐町小学校用務員室に侵入し用務員で殺害し350円を奪い逃走、10月14日深夜に徳島県三好郡(現在の三好市)の浄水場管理人の自宅に侵入し一家6人を斧でめった打ちにし5人を殺害し1人に重傷を負わせた。一家の内、長女に至っては瀕死の重傷の中で強姦もされた上で殺害された。管理人の自宅から10km北にある国鉄土讃本線(現在のJR四国土讃線坪尻駅前にある雑貨商に押し入り、現金2000円と店の菓子を奪って逃走した。

この一連の犯行を同一犯によるものとみなした警察は大規模な山狩りをしたが、Mは香川県に逃亡しており10月20日に香川県三豊郡(現在の三豊市)の雑貨商に押し入り雑貨商夫婦に重傷を負わせ現金170円と衣類を奪った。そのため四国管区警察局は10月21日から香川・愛媛・徳島の3県合同で機動隊員や消防団員を動員して3県の県境の山間部を捜索10月22日にMの身柄を確保した。

事件のその後

Mが仮出獄後に逮捕されるまでの27日間で奪った被害額は2870円と食料と衣類であったが、3県で6人を殺害、4人に重傷を負わせる犯行であった。またMは逃亡中、四国山地でほとんど野宿という無軌道なものであった。

Mは刑事裁判強盗殺人罪などに問われ、1964年(昭和39年)3月3日に徳島地方裁判所(黒川裁判長)で検察官求刑通り死刑判決を言い渡された[4]。この判決を不服とした弁護人控訴したが[4]高松高等裁判所(横江裁判長)は1965年(昭和40年)8月5日に控訴を棄却する判決を言い渡した[5]1966年(昭和41年)3月31日に最高裁判所第一小法廷入江俊郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたことで死刑確定[4]1970年(昭和45年)10月29日大阪拘置所で死刑を執行された。記録によれば午前10時29分47秒絶命とされている。一方で同年9月に死刑を執行されたとする文献もある[6]

参考文献

  • 週刊サンケイサンケイ新聞社出版局、第21巻第20号、1972年5月5日、笠銀作(構成)、108-112頁「ドキュメント・犯罪調書 最終回 悽惨!四国の殺人地獄」 - 通巻:第1109号(1972年5月5日号)。CITEREF笠銀作1972
  • 村野薫『日本の大量殺人総覧』 新潮社、2002年。 ISBN 4-10-455215-1

関連項目

  1. ^ a b c d e 徳島新聞』1963年3月3日夕刊1頁「〝凶悪犯〟Mに死刑 徳島地裁が判決 あまりにも残忍 情状酌量、余地なし 精神異常は認めず」「控訴しよう 弁護人談」「刑法46条(併合罪と刑の吸収)を適用 ○○さん強殺だけで死刑」(徳島新聞社)
  2. ^ 『徳島新聞』1964年3月3日夕刊3頁「死刑!一瞬涙ぐむM 聞くに耐えぬ表情 〝当然の報い〟と傍聴者の声」「でも、妻子は返らぬ」「どっと傍聴者」「異例のスピード裁判」「戦後六人目の極刑 県下」(徳島新聞社)
  3. ^ 『徳島新聞』1964年8月17日夕刊3頁「【高松】M 衰弱し出廷せず 控訴審初公判開く 検察側 〝棄却相当〟と反論」(徳島新聞社)
  4. ^ a b c d 『徳島新聞』1966年3月31日夕刊5頁「九人殺傷 Mの死刑確定 最高裁、上告を棄却 精神鑑定を認めず」(徳島新聞社)
  5. ^ 『徳島新聞』1965年8月6日朝刊セット版11頁「森吉の控訴棄却 十人殺傷 原判決どおり死刑」(徳島新聞社)
  6. ^ 笠銀作 1972, p. 112.




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