仙台幼児誘拐殺人事件とは? わかりやすく解説

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仙台幼児誘拐殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 09:42 UTC 版)

仙台幼児誘拐殺人事件
場所 日本: 宮城県仙台市
日付 1964年昭和39年)12月21日
概要 身代金目的の誘拐殺人事件
攻撃側人数 1名
死亡者 1人
被害者 男児S(当時5歳)
犯人 天津七三郎(芸名、犯行当時29歳)
動機 借金の返済
関与者 ms
賠償 死刑執行済み
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仙台幼児誘拐殺人事件(せんだいようじゆうかいさつじんじけん)は、1964年昭和39年)12月21日日本宮城県仙台市で発生した身代金目的の誘拐殺人事件。かつて天津 七三郎の芸名で活動していた元映画俳優の男K(事件当時29歳)が身代金目的で、男児S(当時5歳)を誘拐・殺害した。

犯人のKは刑事裁判死刑求刑されたが[1]第一審仙台地方裁判所被告人Kを無期懲役とする判決を言い渡した[2]。しかし検察官控訴したところ、仙台高等裁判所は原判決を破棄自判し、Kを死刑とする控訴審判決を言い渡した[3]。Kは最高裁判所上告したが、1968年(昭和43年)に最高裁で上告棄却の判決を言い渡されて死刑判決が確定[4]1974年(昭和49年)7月5日宮城刑務所死刑を執行された(39歳没)[5]。Kは日本の芸能人で死刑となった唯一の人物である。

天津七三郎

1935年に仙台市に生まれ、犯行当時29歳だった[6]。父は警察官だったが、中学生時代に結核で病死する[6]

高校進学後、自身も病弱で学校を長欠したことや母が別の男性と同居するようになったため、単身上京し「天津 七三郎」の芸名で映画俳優となる[6]。だが、俳優時代に多くの出費をして母の援助に頼り、母自身も同居男性から借金をするような状況であった[6]。加えて、女性問題もあって1962年末頃に俳優業を辞め、帰郷して母と自らの借金の返済に当たるべく、会社をいくつか設立するがいずれも失敗した[6]。1964年春に手形の期日延長を申し入れた際に被害者の父と知り合った[6]

その後天津は家庭を持つに至ったが、借金も増え続け、その返済を迫られて犯行に及んだものだった[6]。犯行を着想するに際しては、前年発生して当時は未解決だった吉展ちゃん誘拐殺人事件も念頭にあったと一審判決で認定されている[6]

犯行

1964年12月21日、仙台市内に住む5歳の幼児が、自宅に掛かってきた通園先の幼稚園の外国人神父が帰国するので記念写真を撮影するため来園してほしいという内容の電話で出向いたところを、乗用車に乗った天津により連れ去られた[6]

天津は言を左右にして幼児を乗用車で連れ回し、やがて幼児は帰りたいと泣いたり暴れたりした[6]。幼児が助手席に立ち上がった際に天津が首をつかんで揺さぶったところ、幼児は失神し、天津は幼児を車のトランクに入れ、その後ロープで首を絞めて殺害した[6]。この間、天津は身代金を要求する電話を掛けたが、繋がらなかった[6]

天津は帰宅して幼児の遺体を物置に放置した後、改めて母親に身代金500万円を用意するよう電話を掛け、同日夜に指定した場所に現金を受け取りに現れたところを逮捕された[6]

事件後、被害者の墓は長徳寺(仙台市太白区向山)に建てられた[7]

刑事裁判

第一審

刑事裁判第一審公判は1965年(昭和40年)1月26日に仙台地方裁判所第1刑事部(裁判長:佐々木次雄、陪席裁判官:高井清次・斎藤清実)で開かれ、罪状認否で被告人Kは起訴事実を認めた[8]仙台地方検察庁からの公判出席検事は前田亮知(同地検刑事部長)・宮城賢一[8]、被告人Kの弁護人は南出一雄・長谷川英雄[9]

同年2月23日の第2回公判で、仙台地裁は弁護人からの申請を受けて殺害現場・死体遺棄現場の現場検証を行うことを決め[10]、同月27日に殺害現場(富谷射撃場)と死体遺棄現場(Kの自宅物置)の検証を実施した[11]。第3回公判は同年3月8日に開かれ、その次回公判(3月23日)で検察官による論告求刑と弁護人による最終弁論が行われ、結審することとなった[12]

第一審公判は同年3月23日の論告求刑公判で結審し、検察官の前田はKに死刑を求刑した[1]。これは、吉展ちゃん誘拐殺人事件などを契機に誘拐罪のうち営利誘拐の罰則を引き上げる刑法改正後、初の誘拐事件に対する死刑求刑だった[1]。一方で弁護人は最終弁論で、Kの性格は論告で指摘されたような残酷なものではなく、犯行も計画的ではない旨や、死刑が同種犯罪に対して有している予防効果への疑念を述べた[13]

無期懲役判決

仙台地裁は1965年4月5日の第一審判決公判で、極刑に相当するとしながらも、被告人(天津)の生い立ちや殺害が偶発的であったこと、逮捕後の改悛を情状として無期懲役を言い渡した[6][2]。この判決は初公判から約2か月で言い渡されており、異例のスピード審理であると評されているが、これは事実関係が争点にならなかったことが要因とみられている[14]。同地裁は主文の言い渡しを後回しにし、判決理由で犯行の悪質性や社会的影響を考慮すればその罪は極刑に値すると指弾したが、Kの生い立ちや借金を抱えた経緯、そして借金で追い詰められた末に犯行におよんだ点には同情の余地があるとことを指摘し、犯行後に深く反省し、全面的に自供していることも踏まえ、無期懲役を選択したと述べた[14]。判決後、裁判長の佐々木次雄は「被告人の権利を守ってやるのは裁判所だ。憎しみやみせしめのためだけで刑を重くすることがあってはならないと思う」と閉廷後にコメントした一方、被害者の父親は判決言い渡しの途中で席を蹴って退廷した[14]

仙台地検はこの判決は量刑不当であるとして、その日のうちに仙台高等裁判所へ控訴した[14][15]

控訴審

控訴審は仙台高裁第2刑事部(細野幸雄裁判長)に係属した[16]。控訴審でも第一審と同様、Kは犯行事実を全面的に認めたため、情状と量刑が争点となった[17]

控訴審の初公判は1965年10月12日に開かれた[18]。同公判に出席した仙台高等検察庁刑事部長検事の佐々木衷は控訴趣意書で、誘拐殺人の社会的影響の大きさに加え、犯行は計画性が高く、殺害行為だけを切り離して偶発的と断じることはできないとする主張や、原判決は被告人に有利な情状を過大に考慮しているという主張を展開、またKは被害者を殺害する前にパンの一欠片すら与えていないとして、被害者を無事に解放するための努力すらしていないと指摘し、死刑適用を求めた[19]。一方で弁護人の南出一雄と長谷川英雄は、原判決の認定と同じく、Kには当初から被害者を殺害する意思があったわけではなく、犯行は偶発的なものであると反論、また死刑判決を言い渡すことは死刑廃止の世界的な潮流に逆行するという旨や、Kが深く反省し、被害者の冥福を祈っていることなどを考慮すべきであると主張、控訴棄却を求めた[19]

控訴審の公判は1966年(昭和41年)9月16日に開かれた第9回公判で結審し[20]、検察官は同日の最終弁論で、Kは獄中で個人的な「悟り」の心境に至っているにしても、自らの犯行が与えた社会的影響に対する反省の念は認められないとした上で、この事件は金を得るため、卑劣な手段で社会を不安に陥れたものであり、それぞれ東京地方裁判所で死刑判決が言い渡された雅樹ちゃん誘拐殺人事件や吉展ちゃん誘拐殺人事件にも匹敵する事件であるとして、改めてKを死刑に処すよう求めた[21]

控訴審の公判担当検事である佐々木衷は、「どうか、裁判長が、ぼくと同じ気持ちになってほしい」という考えで立証活動を行っていたといい、前述の雅樹ちゃん事件や吉展ちゃん事件の判決文の写しを公判で証拠として提出していた[7]

死刑判決

仙台高裁第2刑事部(細野幸雄裁判長)は1966年10月18日の控訴審判決公判で、「本件殺人を目して、単純な全くの偶発的犯行と同一視することは到底できない」とし、生い立ちなどの事情を「加味斟酌しても、前叙その他審理にあらわれた一切の情状を総合してみれば、被告人に対しては極刑をもって臨むのが相当である」と原判決を破棄し、Kを死刑とする控訴審判決を宣告した[16][17]。この控訴審判決は原判決とは異なり、Kの情状よりも犯行の社会的影響の重大性を重視した判決であると評されている[7]

Kは判決を静かに聞いており、判決言い渡し後に裁判長の細野から「上告できるんですよ」と言われても大きく首を横に振っていたことから、『読売新聞』では後者の行動は〝極刑受諾〟の意思表示であったと報じられている[7]。前述の第一審判決を仙台地裁の裁判長として言い渡した佐々木次雄はこの判決を受け、「一審では自信をもって判決を下しただけに、意外という感じがした」と述べている[7]。また佐々木衷は判決について「全面的に勝った」と語りながらも、仮に控訴棄却の判決が言い渡されていた場合はKに面会して「おめでとう。よかったね」と言ってやりたかった、という複雑な心境も語っていた[7]

死刑確定・執行

Kは弁護人の南出一雄を通じて上告したが[3]、1968年(昭和43年)7月2日に最高裁判所第三小法廷田中二郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定する[4]

かくして天津は死刑確定者(死刑囚)となり、1974年(昭和49年)7月5日に宮城刑務所死刑を執行された(39歳没)[22][5]。Kは死刑執行の1、2年前から精神的に落ち着きを見せ、獄中で自身の罪を悔いながら被害者の冥福を祈っていたという[22]

脚注

  1. ^ a b c 『読売新聞』1965年3月23日東京夕刊第4版9頁「【仙台発】幼児誘かい殺人 「K」に死刑求刑」(読売新聞東京本社)
  2. ^ a b 『読売新聞』1965年4月5日東京朝刊第4版9頁「【仙台発】仙台の坊や誘かい殺人 「K」に無期の判決 仙台地裁「情状酌量の余地ある」 両親憤然、途中で退廷」「【仙台発】自暴自棄の犯行 死刑より、罪のつぐないを 判決要旨」「世間の感情にひきこまれず」「二氏の意見 軽すぎて意外だ 悪循環の〝流行犯罪〟 もっと被害者の立場を」(読売新聞東京本社)
  3. ^ a b 『読売新聞』1966年11月1日東京朝刊第14版15頁「【仙台】誘かい殺人のK上告」(読売新聞東京本社)
  4. ^ a b 河北新報』1968年7月2日夕刊5頁「Kの死刑確定 ○○ちゃん殺し 最高裁が上告棄却」(河北新報社
  5. ^ a b 『読売新聞』1974年8月24日東京朝刊第14版18頁「幼児誘かい殺人『K』の死刑執行」(読売新聞東京本社)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 第一審判決 - 仙台地方裁判所1965年(昭和40年)4月5日判決。『下級裁判所刑事裁判判例集』第7巻第4号、602-611頁。
  7. ^ a b c d e f 『読売新聞』1966年10月19日東京朝刊第8版宮城讀賣B 16頁「〝逆転判決〟に一瞬どよめき ○○ちゃん事件公判 〝情状〟の評価くずれる 祈るような一例 K、表情変えず無言で」「解説 重かった〝社会的責任〟」(読売新聞東京本社・東北総局)
  8. ^ a b 『河北新報』1965年1月26日夕刊1頁「○○ちゃん事件の初公判開く 仙台地裁 K、犯行を認める 『間違いありません』」(河北新報社)
  9. ^ 『読売新聞』1965年1月27日東京朝刊第8版宮城讀賣16頁「○○ちゃん事件初公判 証拠の遺品に肩落とす しゃくり泣く「K」背に食い入る遺族の目」(読売新聞東京本社・東北総局)
  10. ^ 『読売新聞』1965年2月24日東京朝刊第8版宮城讀賣16頁「○○ちゃん殺し第2回公判 K、検察側証拠認める 27日に現場検証」(読売新聞東京本社・東北総局)
  11. ^ 『読売新聞』1965年2月28日東京朝刊第8版宮城讀賣16頁「○○ちゃん事件の現場検証 「殺す意思なかった」」(読売新聞東京本社・東北総局)
  12. ^ 『読売新聞』1965年3月9日東京朝刊第8版宮城讀賣16頁「○○ちゃん事件第三回公判 Kの母が証人台に 「信じられぬくらい」」(読売新聞東京本社・東北総局)
  13. ^ 『読売新聞』1965年3月24日東京朝刊第5版宮城讀賣16頁「死刑求刑 涙声でふるえるK 「当然だ」と父親」「犯行には計画性はない 最終弁論」(読売新聞東京本社・東北総局)
  14. ^ a b c d 『読売新聞』1965年4月6日東京朝刊第5版宮城讀賣B 16頁「〝無期〟に両親、怒りもあらわ 「子を殺したのに」 泣くKと対照的 席けって法廷外へ」「「感情にとらわれず……」 検察側は「軽すぎる」と控訴」「解説 情状を大幅に認める 争点少なくスピード判決」(読売新聞東京本社・東北総局)
  15. ^ 『読売新聞』1965年4月6日東京朝刊15頁「【仙台発】坊や誘かい殺人の「K」 無期判決に検事控訴」(読売新聞東京本社)
  16. ^ a b 『河北新報』1966年10月18日夕刊1頁「○○ちゃん事件 控訴審でKに死刑判決 偶発的犯行ではない 仙台高裁 原判決を破棄」(河北新報社)
  17. ^ a b 『読売新聞』1966年10月18日東京夕刊第4版11頁「【仙台】仙台の誘かい殺人 「K」に死刑の判決 一審の無期を破棄 仙台高裁〝あまりにも残忍、非情〟」(読売新聞東京本社)
  18. ^ 『朝日新聞』1965年10月12日東京夕刊第3版6頁「【仙台】Kの 控訴審開く 検察側は死刑を求める」(朝日新聞東京本社) - 縮刷版302頁。
  19. ^ a b 『読売新聞』1965年10月13日東京朝刊第8版宮城讀賣B 16頁「誘かい殺人控訴審公判 「死刑が相当」と検事側 首うなだれるK」(読売新聞東京本社・東北総局)
  20. ^ 『読売新聞』1966年9月17日東京朝刊第14版14頁「【仙台】仙台誘かい殺人 控訴審で死刑を求刑」(読売新聞東京本社)
  21. ^ 『読売新聞』1966年9月17日東京朝刊第8版宮城讀賣B 16頁「○○ちゃん事件公判 来月十八日に判決」(読売新聞東京本社・東北総局)
  22. ^ a b 『河北新報』1974年8月23日夕刊7頁「○○ちゃん事件 誘かいのK処刑」(河北新報社)

関連文献

関連項目




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