1971年12月とは? わかりやすく解説

1971年12月 -

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:42 UTC 版)

馬インフルエンザ」の記事における「1971年12月 -」の解説

日本国内馬インフルエンザ初め発生したのは1971年12月で、関東地区中心に大流行した。このときのウイルスウマ2型(H3N7)であった当時馬インフルエンザよりも馬流行性感冒の略である「馬流感」という呼び方主流であった。 これは1971年11月19日ニュージーランドより乗馬クラブ輸入した5頭の乗用馬感染源となったものであったというのが現在の定説である。この5頭は所定輸出検疫終了し12月3日東京青森福島乗馬クラブなど導入され、この導入された場所から感染広がったとされている。しかし、当時馬インフルエンザ清浄国であったニュージーランド輸入馬がどのような経路感染したかは不明であるとされている(このため本当感染源フランスから輸入され種牡馬で、ニュージーランドから輸入された馬はこの種牡馬からウイルス移されに過ぎないではないかという説も唱えられている)。このインフルエンザウイルスに対して当時日本処女地であったため、ワクチンなどの対応策無く日本ウマ全体広がり最終的には1都1府7県(東京大阪青森福島新潟埼玉千葉神奈川広島)の26箇所)、とりわけ東日本地区競走馬の間では発症する馬が続出エピデミック地域流行)の様相呈した競馬場最初に馬インフルエンザ患畜発生したのは南関東公営競馬川崎競馬場である。馬インフルエンザたちどころに猛威奮い日常的に人馬交流がある他の南関3場にも年末までに大井浦和船橋の順で次々と伝播し、これにより南関4はいずれ1971年年末開催から開催休止開催日程大幅な変更強いられ、本来ならば年末大一番であるアラブ大賞典東京大賞典大井はいずれ競馬再開後の翌1972年3月まで順延余儀なくされた他、ニューイヤーカップ浦和)などの重賞競走中止されるなどの影響出たまた、当時継続中であった佐々木竹見連続年間300勝超の大記録競馬開催中止原因となり7年ストップすることになった。 そして、これが中央競馬にも波及してゆく。最初に東京競馬場厩舍群で感冒症状見せる馬が大量に発生中止最後開催となった1971年12月第3週1819日)、有馬記念開催週の中山競馬であったが、感冒により出走取りやめる馬が続出する異常事態起き、これにより中央競馬でも『馬流行性感冒』が発生している事が明らかとなる。 第16回有馬記念競走出走表段階では9頭立てであったが、出走すれば1番人気が確実だったメジロアサマの他、アカネテンリュウ、カミタカの計3頭が出走取り消し実際に出走出来た6頭によるレースとなった。なお、有馬記念優勝馬清水英次騎乗トウメイであり、当日の1番人気だった横山富雄騎乗メジロムサシは5着と敗れた。そして、週明け21日には中山競馬場厩舍群でも感染馬が確認され22日からは馬の運動全面的に中止された。 12月23日にはオランダより緊急輸入され2000頭分不活化ワクチン到着当面対策としてまずは栗東トレーニングセンター船橋競馬場配布され接種が行われた。しかし関東地方での感染拡大続き1971年中央競馬最終を飾るはずだった26日中山大障害中止追い込まれ中央競馬東京中山厩舍群でもその後感染の拡大続いたまた、年末には新潟県競馬の他、西日本では初となる福山競馬場、ついで園田競馬場でも集団感染確認され新潟県競馬冬季休催期間であったが、福山競馬新春開催から全面的に中止となった園田開催中止余儀なくされている。 年が明けた1972年中央競馬における馬インフルエンザ流行ピーク感染騒動始まって3週間目の1月8日で、この時点で1,986頭の患畜発生していた。それから2ヶ月間、中央競馬関東地区では1971年6回中山競馬7、8日目1972年1・2東京競馬述べ9週にわたり全日程が開催中止やむなき至った関西地区平常日程通り開催だった)。最終的に南関東公営競馬4場と中央競馬関東地区の在厩馬は、ほとんど全て感染したとも言われる中央競馬を例に挙げると、当時関東地区現在のように美浦トレーニングセンターがまだない頃で、東京競馬場中山競馬場中山競馬場白井分場(現・競馬学校)の3箇所分散して競走馬厩舎があり、その3箇所関東所属競走馬調教が行われていたが、1972年馬インフルエンザ問題当時関東地区3箇所の在厩馬が合計1,893頭だったのに対し発症馬は1,766頭にも上った。 なお、中央競馬栗東トレーニングセンター上述した場を除く地方競馬地区入厩制限順を追って行われたワクチン配布などの懸命防疫体制敷いたことが奏功し、感染防止成功した為、競馬開催通常通り行われた1972年馬インフルエンザ流行影響で、その年の上半期関東地区中央競馬開催日程について大幅な変更余儀なくされることとなった具体的に中央競馬では皐月賞開催5月28日に、東京優駿日本ダービー)の開催7月9日延期されるなど、春季クラシック戦線にまで大きな影響及ぼした日本ダービー開催阪神競馬場宝塚記念より遅かったのは1968年1971年(共に東京競馬場スタンド改築のため)及びこの1972年だけである。 1972年クラシック戦線は、牡馬で例を挙げればロングエース・ランドプリンス・タイテエムの『関西三強』が中心軸となるなど、インフルエンザ影響を受けなかった関西馬全体的に優勢な状況となった。 この馬流感騒動は、競走馬の生産繁殖部門にも大きな影響もたらした一例挙げればメジロアサマ引退後種牡馬になったものの、無精子症近く受胎率低さ悩まされるになったが、これは馬インフルエンザ治療使用した抗生物質副作用と言われている。そのため、種付けをしても思うよう受胎成績上がらず種牡馬として廃用寸前追い込まれたほどである。馬インフルエンザ影響メジロアサマ同様に種牡馬及び繁殖失格追い込まれた馬もいた。

※この「1971年12月 -」の解説は、「馬インフルエンザ」の解説の一部です。
「1971年12月 -」を含む「馬インフルエンザ」の記事については、「馬インフルエンザ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1971年12月」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1971年12月」の関連用語

1971年12月のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1971年12月のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの馬インフルエンザ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS