1971年12月 -
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「馬インフルエンザ」の記事における「1971年12月 -」の解説
日本国内で馬インフルエンザが初めて発生したのは1971年の12月で、関東地区を中心に大流行した。このときのウイルスはウマ2型(H3N7)であった。当時は馬インフルエンザよりも馬流行性感冒の略である「馬流感」という呼び方が主流であった。 これは1971年11月19日にニュージーランドより乗馬クラブが輸入した5頭の乗用馬が感染源となったものであったというのが現在の定説である。この5頭は所定の輸出検疫を終了し、12月3日に東京、青森、福島の乗馬クラブなどに導入され、この導入された場所から感染が広がったとされている。しかし、当時馬インフルエンザの清浄国であったニュージーランドの輸入馬がどのような経路で感染したかは不明であるとされている(このため、本当の感染源はフランスから輸入された種牡馬で、ニュージーランドから輸入された馬はこの種牡馬からウイルスを移されたに過ぎないのではないかという説も唱えられている)。このインフルエンザウイルスに対して当時の日本は処女地であったため、ワクチンなどの対応策も無く、日本のウマ類全体に広がり(最終的には1都1府7県(東京、大阪、青森、福島、新潟、埼玉、千葉、神奈川、広島)の26箇所)、とりわけ東日本地区の競走馬の間では発症する馬が続出、エピデミック(地域流行)の様相を呈した。 競馬場で最初に馬インフルエンザ患畜が発生したのは南関東公営競馬の川崎競馬場である。馬インフルエンザはたちどころに猛威を奮い、日常的に人馬の交流がある他の南関3場にも年末までに大井、浦和、船橋の順で次々と伝播し、これにより南関4場はいずれも1971年の年末開催から開催の休止や開催日程の大幅な変更を強いられ、本来ならば年末の大一番であるアラブ大賞典・東京大賞典(大井)はいずれも競馬再開後の翌1972年3月まで順延を余儀なくされた他、ニューイヤーカップ(浦和)などの重賞競走が中止されるなどの影響が出た。また、当時継続中であった佐々木竹見の連続年間300勝超の大記録も競馬開催中止が原因となり7年でストップすることになった。 そして、これが中央競馬にも波及してゆく。最初に東京競馬場の厩舍群で感冒の症状を見せる馬が大量に発生、中止前最後の開催となった1971年12月第3週(18、19日)、有馬記念の開催週の中山競馬であったが、感冒により出走を取りやめる馬が続出する異常事態が起き、これにより中央競馬でも『馬流行性感冒』が発生している事が明らかとなる。 第16回有馬記念競走も出走表の段階では9頭立てであったが、出走すれば1番人気が確実だったメジロアサマの他、アカネテンリュウ、カミタカの計3頭が出走を取り消し、実際に出走出来た6頭によるレースとなった。なお、有馬記念優勝馬は清水英次騎乗のトウメイであり、当日の1番人気だった横山富雄騎乗のメジロムサシは5着と敗れた。そして、週明けの21日には中山競馬場の厩舍群でも感染馬が確認され、22日からは馬の運動が全面的に中止された。 12月23日にはオランダより緊急輸入された2000頭分の不活化ワクチンが到着、当面の対策としてまずは栗東トレーニングセンターと船橋競馬場に配布され、接種が行われた。しかし関東地方での感染拡大は続き、1971年中央競馬の最終を飾るはずだった26日の中山大障害も中止に追い込まれ、中央競馬の東京・中山の厩舍群でもその後も感染の拡大は続いた。 また、年末には新潟県営競馬の他、西日本では初となる福山競馬場、ついで園田競馬場でも集団感染が確認され、新潟県営競馬は冬季休催期間であったが、福山競馬は新春開催から全面的に中止となった。園田も開催中止を余儀なくされている。 年が明けた1972年、中央競馬における馬インフルエンザ流行のピークは感染騒動が始まって3週間目の1月8日で、この時点で1,986頭の患畜が発生していた。それから2ヶ月間、中央競馬の関東地区では1971年6回中山競馬7、8日目、1972年1・2回東京競馬の述べ9週にわたり全日程が開催中止のやむなきに至った(関西地区は平常日程通りの開催だった)。最終的には南関東公営競馬4場と中央競馬の関東地区の在厩馬は、ほとんど全てが感染したとも言われる。 中央競馬を例に挙げると、当時の関東地区は現在のように美浦トレーニングセンターがまだない頃で、東京競馬場と中山競馬場、中山競馬場白井分場(現・競馬学校)の3箇所に分散して競走馬の厩舎があり、その3箇所で関東所属の競走馬の調教が行われていたが、1972年の馬インフルエンザ問題当時、関東地区3箇所の在厩馬が合計1,893頭だったのに対し、発症馬は1,766頭にも上った。 なお、中央競馬の栗東トレーニングセンター、上述した場を除く地方競馬他地区は入厩制限や順を追って行われたワクチン配布などの懸命の防疫体制を敷いたことが奏功し、感染防止に成功した為、競馬開催は通常通り行われた。 1972年の馬インフルエンザ流行の影響で、その年の上半期の関東地区の中央競馬開催日程について大幅な変更を余儀なくされることとなった。具体的には中央競馬では皐月賞の開催が5月28日に、東京優駿(日本ダービー)の開催が7月9日に延期されるなど、春季クラシック戦線にまで大きな影響を及ぼした。 日本ダービーの開催が阪神競馬場の宝塚記念より遅かったのは1968年と1971年(共に東京競馬場のスタンド改築のため)及びこの1972年だけである。 1972年のクラシック戦線は、牡馬で例を挙げればロングエース・ランドプリンス・タイテエムの『関西三強』が中心軸となるなど、インフルエンザの影響を受けなかった関西馬が全体的に優勢な状況となった。 この馬流感騒動は、競走馬の生産(繁殖)部門にも大きな影響をもたらした。 一例を挙げれば、メジロアサマは引退後種牡馬になったものの、無精子症に近く受胎率の低さに悩まされる事になったが、これは馬インフルエンザ治療で使用した抗生物質の副作用と言われている。そのため、種付けをしても思うように受胎成績が上がらず種牡馬として廃用寸前に追い込まれたほどである。馬インフルエンザの影響でメジロアサマ同様に種牡馬及び繁殖馬失格に追い込まれた馬もいた。
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