1971年 - 1983年
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「ニュルブルクリンク」の記事における「1971年 - 1983年」の解説
コースは改修が行われ北コースはアームコバリアなど安全設備の設置、路面の再舗装によりバンプやジャンプセクションの除去などが行われた。コースレイアウトも調整がされレースラインがより直線的となり、公式なコーナー数も減少した。これらの改修が功を奏して1971年から再びF1の開催を実現した。 1972年、コース幅の狭いHatzenbach(ハッツェンバッハ)とBreidscheid(ブライトシャイト)の橋を掛替え。1973年、入り口が危険でバンピーであったカレンハルトコーナーの速度を落とすため手前のメッツゲスフェルトコーナーの後に左コーナーが追加された。メインストレートのジャンプスポットの除去や、木や茂みの伐採によりセーフティエリアを拡大し安全性を向上させた。 1971年のF1復活後、F1ドライバーや国際自動車スポーツ連盟からの安全性への要求は年々高まっていった。しかしながら北コースは22kmにも及ぶ長大なコースであり、山の麓にある関係で安全エリアを設けるスペースを作ることが困難なこともあり、改修費用が膨大となってしまい、さらなる要求に答えることは不可能となっていった。コースが長いため必要なマーシャル、スタッフの数が通常のF1レースの5倍にも膨らみ、救急車両の到着に時間がかかる問題があった。さらに普及が著しかったテレビ放送では、すべてのコーナーをカバーできない点も問題であった。 1976年、F1ドライバーのボイコットが再び起こり、投票によりレースは行われる事になったが、ニキ・ラウダがレース中にクラッシュしマシンが炎上する大事故が起こった。この事故が決定的となり1976年がニュルブルクリンクでのF1最後の開催であると認識された。1977年よりF1はホッケンハイムに開催場所を移した。 ロードレース世界選手権は1960年代にソリチュードに変わりニュルブルクリンクで再び行われることとなった。当初は南コースが使われていたが、整備不良の問題から、1970年より北コースで開催されるようになった。 1981年より旧ピットエリア周辺でGPコースの新設工事が開始された。これにより北コースはバイパスされ20.832kmに短縮、小さなピットレーンも追加された。このレイアウトは1983年のみ1000km耐久レースなどで使用された。 北コースも1982-1983年に改修が行われ、アレンベルクやブリュンヒェンコーナーのランオフエリアが拡大、点在していたパンプやジャンプスポットが再舗装された。レーシングラインマーカーがコース全域にわたりペイントされた。 南コースは1970-1971年と整備が行われず、安全対策が北コースに比べ大きく遅れていることなどから、数年後に放棄される決断がなされた。現在南コースはコース後半部分の森林区間の一部などを残し、GPコースの新設のためなどに大半が壊されるなどしてなくなっている。
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1971年 - 1983年
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「ドリス・ウィッシュマン」の記事における「1971年 - 1983年」の解説
1970年代、ウィッシュマンは様々なジャンル、そしてジャンルの混合に挑戦した。『Keyholes Are for Peeping 』(1972年)は、コメディアン、サミー・ペトリロ (Sammy Petrillo)主演のセックス・コメディである。『デッドリー・ウェポン (Deadly Weapons) 』(1973年)と『ダブル・エージェント73 (Double Agent 73) 』(1974年)は、73インチ(約185cm)のバストで知られるストリッパー、チェスティー・モーガン主演のスリラー映画である。ウィッシュマンのチェスティー・モーガン主演映画は、彼女の最も有名で最も人気のある映画の一つで、誇張された美学で知られる。1970年代中頃、ウィッシュマンは少なくとも2本のハードコアポルノ映画を監督した。『Satan Was a Lady 』(1975年)と『Come with Me, My Love 』(1976年)は、いずれもパフォーマンスアーティストでポルノ女優のアニー・スプリンクルが主演した。 1971年に製作が開始され、1978年にようやく日の目を見た『Let Me Die a Woman 』(1978年)は性転換についてのセミ・ドキュメンタリー映画である。映画は実在のトランスジェンダーの人々の実態を数多く調査すると共に、多数の脚色されたドラマ部分を特色とし、後の伝説のポルノ男優、ハリー・リームスが(ティム・ロングとして)カメオ出演している。 1970年代後期にはスプラッター映画に興味が向かい、ウィッシュマンは『A Night to Dismember 』という映画でホラー映画に危険を冒して挑戦し、これは1983年頃完成した。この映画は寄せ集めの構造が目立ち、商業的に失敗し、ウィッシュマンは事実上引退に追い込まれた。
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1971年-1983年
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「月探査機の一覧」の記事における「1971年-1983年」の解説
機体組織日付種類成否備考画像注ルナ18号 ソ連 1971年9月11日 ランダー/サンプルリターン? 失敗 月に激突 ルナ19号 ソ連 1971年10月3日 -1972年10月 オービター 成功 ルナ20号 ソ連 1972年2月21日 サンプルリターン 成功 無人サンプルリターンの2回目の成功 ソユーズL3† ソ連 1972年11月23日 オービター 失敗 打ち上げ失敗 ルナ21号 ソ連 1973年1月15日 -1973年5月? ランダー 成功 ローバーを展開 Lunokhod 2 ローバー 成功 2機目の無人ローバー。37 km走破。 エクスプローラー49号 NASA 1973年6月15日 -1975年6月 オービター 成功 電波天文学。1994年までアメリカ最後の月ミッション。 マリナー10号 NASA 11月 1973年 フライバイ 成功 金星、水星へ向かう途中 ルナ22号 ソ連 1974年6月2日 -1974年11月 オービター 成功 ルナ23号 ソ連 1974年11月6日 サンプルリターン 失敗 着陸時に損傷。サンプルリターン失敗。 ルナ1975A† ソ連 1975年10月16日 サンプルリターン 失敗 地球軌道到達に失敗 ルナ24号 ソ連 1976年8月18日 サンプルリターン 成功 ルナ計画最後のサンプルリターン ISEE3 NASA 1983年12月22日 フライバイ 成功 重力アシスト
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